神の銃口

-第3話-

 一時は症状が落ち着いた二人だったが、翌朝からは再び激しい疼痛が襲った。痛みはしばらく続いたが、昼にはようやく小康状態に落ち着いた。チャールズはホワイトホール宮殿の父の元ではなく、セント・ジェームズ宮殿で寝込んだままのヴィリアーズに付き添った。
「大丈夫か」
 寝台でげっそりと痩せこけたヴィリアーズに声をかけると、彼は疲れた笑みを浮かべてみせた。
「私は結構ですから、どうぞ陛下のお側に」
「父上なら母上がついている」
 そして、目を逸らすと小さく言い添える。
「……これで、少しはわかるだろう。母上が側にいてくれるありがたみが」
 チャールズの言葉にヴィリアーズは小さく笑いを漏らした。だが、深い溜息を吐き出すと独り言のように呟く。
「それにしても、一体何故このようなことに……」
「……皆が噂していた」
 ヴィリアーズは目を上げた。
「殺されたカトリックの司祭の呪いではないかと。だが、それなら何故おまえにも呪いが降りかかったのか、説明がつかん」
 チャールズは不安そうな表情で腕組みをすると頭を振る。
「……何か裏があるのではないか」
 焦りに満ちた表情にヴィリアーズは眉をひそめた。やがて、チャールズは思い出したように身を乗り出す。
「おまえたちが体調を崩したのは昼前だ。……夜から朝まで一緒にいたのだ。何か変わったことはなかったのか」
 夜から朝までというのは、つまり二人が情事に耽っていた時間だ。ヴィリアーズは気まずそうに目を逸らした。
「……別に……。何もありません」
「思い出せ。何かがあったはずだ」
 食い下がって問い詰めるチャールズに、ヴィリアーズは顔を強張らせる。王との情事は自分にとっても耐え難い時間だ。それを責められるといたたまれない。思い出したくもないのだ。あの、体を重ねるおぞましいひと時は。
「……早く、治したいのだ、おまえを」
 不意にこぼれた言葉にヴィリアーズははっと顔を上げる。眉をひそめ、青白い顔で見つめてくる王子。いつもは強がってばかりいる主の不安に満ちた表情に、ヴィリアーズは表情をゆるめると息をつく。
「……ありがとうございます」
 寝室に沈黙が流れる。ちょうどその時、扉が静かに叩かれるとハーバートが水差しとタオルを持ってやってくる。黙ったままグラスに水を注ぐ彼の仕草をぼんやりと眺めていたヴィリアーズだったが、不意に頭の中が一瞬にして冴え渡る。仄暗い寝室。差し込む灯り。赤毛の女。
「あ……!」
 チャールズが眉を上げて振り返る。
「……そうだ……! そうです……!」
「どうした」
「女官です! 女官が……!」
 ヴィリアーズがもとらない口調で口走り、ハーバートが驚いて手を止める。
「あの時……、女官が寝室にやってきたのです! 着替えだと言って……!」
 チャールズは顔をしかめながらも身を乗り出す。
「女官?」
「陛下のお着替えに女官がやってくるはずがないのです! 陛下は……、女嫌い故、お体のお世話は侍従や小姓しか許されておりません。なのに、何故女官が……!」
 額に手をやってまくし立てるヴィリアーズにチャールズが肩を掴む。
「思い出せ。どんな女だ」
「……赤毛です。赤毛の女です」
 チャールズが目を見開く。ヴィリアーズは眉をひそめたまま、信じられないといった表情で囁く。
「……エレン・モートン……。ホルボーンで見かけたエレン・モートン嬢に似ています」
「ミス・モートンといえば……、母上の女官ではないか」
「しかし、赤毛のご婦人はそうはおりません」
 確かに、後宮でも彼女の美しい艶のある赤毛は目を引いていた。異国の香りが漂うその姿は見る者を惹き付ける。貴族たちの間でもよく話題に上るが、誰の手がついただの、浮ついた話は聞かれない。
「……彼女が、呪いをかけたと申すのか」
 エレン・モートンを目にしたのはつい最近。父の無神経さに腹を立てて後宮に逃げ込んだ時だ。エレンは気を利かせて母を連れてきてくれた。時々母から話を聞くことがあったが、気立てのいい優しい娘だという。あの娘が、呪いを?
「彼女ではないかもしれない。ですが、可能性は捨て切れません。……彼女を調べてみましょう」
「どうやって」
 ヴィリアーズは重い体を起こした。
「彼女は控えの部屋を持っています。調べてみます。ハーバート、着替えを」
「しかし」
「早く!」
 ハーバートは慌てて寝室を出て行った。チャールズはヴィリアーズの肩を押さえた。
「いつまた痛みが出るかわからぬ。おとなしくしておけ」
「いいえ、いつまでも寝込んではいられません。早く事の真相を暴かなければ。私だけではありません。陛下のお体も心配ですから!」
 ハーバートが着替えを持ってくるとヴィリアーズが寝衣を脱ぎ捨てる。痛々しい血みどろの胸。チャールズは痛ましげに目を眇める。
「だが、どうやって部屋の捜索をする。何も証拠はないのだ」
 ボタンをはめながら顔を上げると、ヴィリアーズが小声で囁く。
「殿下、彼女を後宮の中庭に呼び出して下さい。その間、私が部屋を調べます」
「何?」
 思わず素っ頓狂な声を上げるチャールズに、ヴィリアーズは肩を抱いて引き寄せる。
「チャールズ王子のお呼び出しとあれば、彼女も断れないでしょう。お願いします」
「し、し、しかし、わ、私が、その、女性と一緒に……?」
 顔を赤らめてまくし立てるチャールズに、ヴィリアーズは嬉しげに笑いながら猶も言い及ぶ。
「その方が殿下にとってもご都合がよろしいのでは? 殿下がご婦人と二人っきりでいらっしゃったと噂になれば、皆は安心いたしますよ。ああ、チャールズ王子は殿方ではなく、ご婦人にご興味がおありなのだ、と」
「おまえ……!」
 かっとなったチャールズが思わず胸倉を掴むが、はっとして手を離す。そして、苦々しげに吐き捨てる。
「……覚えておれ……!」
「はい。お任せいたしますよ、殿下」
 胸を押さえながらも、ヴィリアーズはにっこりと微笑んだ。

 薄暗い寝室に荒い息遣いが響く。肩を大きく揺らしながら呼吸を繰り返す夫の背をアンが優しく撫でている。
「大丈夫?」
「……ああ」
 つい先程まで再び激痛に襲われていたのだ。この二日間の激痛で、すっかり顔付きが変わってしまったジェームズを、アンは心配そうに見つめた。
「……チャールズはどうしている」
 しわがれた声で尋ねると、アンが腰を屈めて囁く。
「ジョージの看病をしているわ。彼も同じ病状なの」
「なに?」
 落ち窪んでいた目が大きく見開かれる。
「す、スティーニが、スティーニが……?」
「あなたほどひどくはないみたいよ。安心なさい」
 まるで母親に言い聞かせられたようにジェームズはおとなしく黙り込んだ。アンは哀しげに目を細めると夫に囁きかける。
「チャールズは、市民が混乱しないようにと治安判事たちに指示を下しているわ。あの子は義務を果たそうとしている。あなたの息子として」
 ジェームズは唇を歪めて黙り込んだ。神妙そうな顔付きの夫に、アンはそっと溜息をつく。
「……先にあの子の名を聞いて安心したわ」
 その言葉に、ジェームズは叱られた幼子のように顔を赤らめ、目を逸らした。

 その頃、ヴィリアーズは後宮の廊下の角で息を潜めて身を隠していた。王が急病で床に臥したこともあり、後宮はひっそりと静まり返っている。加えて、日も暮れ始め、そろそろ晩餐の準備もしなければならない。女官たちの多くは出払っていた。
 落ち着かない様子で辺りに視線を彷徨わせていたヴィリアーズだったが、やがて扉が開く音に息を呑んで壁に張り付いた。そして、そうっと角から顔を覗かせると、とある一室から女がひとり出ていく姿が目に入る。赤毛の女官、エレン・モートン。侍従の後に続く後姿を見送り、ヴィリアーズは早まる鼓動を抑えつつ、扉をそっと押し開けると身を滑り込ませた。
 エレンの控え室は質素な作りだった。書き机とソファ、衣装箪笥の他はこれといった調度品はない。貴族の子女であればもう少し華やかな部屋が用意されるが、中流家庭の娘であるエレンに控え室が与えられているだけでも王妃の寵愛ぶりがわかる。だが、チャールズに呼び出されたエレンが戻ってくるまでに王を呪った証拠を探し出さねばならない。ヴィリアーズは息をつくと手始めに書き机に歩み寄った。
 手作りらしい小物箱には何通かの手紙が仕舞われている。内容が気になるところだが、今はいちいち目を通す時間はない。いつ誰が来るかわかったものではないし、女性に慣れていないチャールズがいつまでもエレンを引き止められるとは考えられない。ヴィリアーズは焦りながら机の引き出しを開ける。女性特有の細々とした小物が出てくるが、どれも呪いやまじないを感じさせるものではない。
(いや、待て)
 ヴィリアーズは額に汗を浮かべながら手を止めた。
(こんな目のつきやすい場所に妖しげなものは隠すまい。人の目に触れない場所……)
 自分ならどこに隠す。他人が手を触れるのを憚る場所だ。となると……。
 ヴィリアーズは背後を振り返る。そこには大きな衣装箪笥がある。足早に歩み寄ると扉を開ける。ガウンやショールなどがぎっしりと仕舞われた箪笥。中の引き出しをひとつひとつ開ける。装飾品、身だしなみを整える鏡や髪留め。そして、一番下の引き出しを開けると、女性が絶対に人目に晒すことはないものが姿を現す。美しい絹糸で作られた、小さなサッシュベルトのような紐。繊細な刺繍が施された長く細い筒布。すなわち、ガーターとストッキングだ。手馴れた手付きでそれらを掻き回すヴィリアーズ。ガーターを手にして顔を赤らめるような彼ではない。ここなら誰も探そうとしない。確信を持って漁っていた、その時。手に固い何かが触れる。瞬間、胸にひやりと冷たいものを感じる。ごくりと唾を飲み込んでから、手に触れたそれを摘み上げた。
 と、不意に背後で物音が響く。
「……あ」
 振り返ると同時に、衣装を抱えた小間使いが目を見開いて声を上げる。恐怖に満ちた顔つきで眉をひそめ、思わず後ずさろうとする小間使いに、ヴィリアーズは音もなく駆け寄ると二の腕を掴む。
「やっ……!」
 衣装がばさりと床に落ちる。悲鳴を上げる寸前、彼は腰を屈めると小間使いの唇に口付けた。合わさる唇に小間使いは体を硬直させる。それでも顔を捻ろうとする彼女の頭を押さえつけ、腰を引き寄せる。苦しげに顔を歪め、声を上げようと唇を開いた隙に舌をねじ込むと、小間使いは体を震わせてヴィリアーズの胴着にすがりついてきた。若い娘の柔らかな唇。これほど甘やかな接吻はいつぶりだろう。思わず腰を抱いた手に力を込める。長い口付けの後、ようやく二人の唇が離れる。呆然とした小間使いの上気した頬に手を添える。垢抜けないが素朴で穏やかな顔つきの少女だ。ヴィリアーズは唇を指でそっと撫でると耳元に口を寄せる。
「……いい子だから、今見たことは内緒だ」
 小間使いはぼんやりとヴィリアーズを見つめていたが、やがて思い出したようにこくりと頷いた。
 
 その頃チャールズは、後宮の中庭で割れんばかりの胸を抑えてひとり立ち尽くしていた。寒風が吹き抜ける侘しい庭を前にしたバルコニー。チャールズは逃げ出したい気持ちでそわそわと視線を彷徨わせた。何故、どうしてこんなことになった。……帰ろう。待ち人がやって来る前に帰ってしまおう。勝手にそう結論づけると顔を上げた、その時。
「殿下」
 飛び上がって振り返ると、そこにはひとりの美女が佇んでいる。チャールズはごくりと唾を飲み込んだ。
 少しばかり青白い肌のエレン・モートンは、王子からの突然の呼び出しに緊張している様子だった。艶やかな紅の髪。退廃的な印象の灰色の瞳。薄紅色の唇は何か言いたげにかすかに震えている。飾り気のない黒い衣装に包まれた白い肌が胸元から覗く。彼女という存在が現れただけで、中庭は妖しさに満ちてゆく。チャールズは目を逸らせず、真正面から見つめた。本当に、この娘が父を呪ったというのか。いつまでも口を開こうとしない王子にエレンが不安そうに眉をひそめる。チャールズは思い切って口火を切った。
「……す、すまない、突然、呼び出したりして……」
「何か、粗相でもございましたでしょうか」
「ち、違う。そうではない。そうではないのだ」
 かすれた声で弁解する若い王子にエレンはますます不安そうな表情になる。チャールズはゆっくり息を吐き出した。
「……その、そなたに、れ、礼を、言いたくて」
「え?」
 チャールズの顔がみるみるうちに朱に染まってゆく。それを相手に見られているかと思うと、死にたくなるほど恥ずかしい思いに苛まれる。チャールズは一度目をぎゅっと瞑ってから顔を上げた。
「……お、一昨日の、ことだ」
 何のことかすぐにはわからなかったらしいエレンは小首を傾げたが、やがてはっと目を見開く。
「……そなたが、母上を、つれてきてくれて、良かった……。本当に、助かった。……礼を言う」
 どもりながらもはっきりと感謝の言葉を告げた王子に、エレンは顔をほころばせた。
「もったいないお言葉。私は王妃をお連れしただけでございます」
「……何故だ?」
 チャールズは顔をしかめて言葉を続けた。
「何故、医者ではなく、母上を呼んだ」
 その問いに、エレンはすぐに答えようとはしなかった。しばらく口をつぐんでから、ようやく口を開く。
「……ひとりで歩ける、と仰せでしたので」
 チャールズの眉がぴくりと吊り上る。
「お体の調子が悪いのではなく、ご気分の方が優れないのではないかと思いました」
 そして、言いにくそうに付け加える。
「王妃が……、以前仰せられていました。チャールズ王子はご幼少の頃のご記憶に苦しまれている、と」
 咄嗟に顔を背けたチャールズにエレンは慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません……! 差し出がましいことを……!」
「い、いや、そなたの、せいではない」
 見られたくない自分を見られた上、胸の内まで探られた気分になったチャールズは激しく動揺しながらも必死で言葉を返した。
 そうだ。学問に打ち込むのも、武芸に励むのも、すべては過去の自分を葬り去りたいがためだ。だが、過去は過去だ。消しようがない。こうして思わぬ時に亡霊のように姿を現す本当の自分。それを見せないために精一杯強がり、虚飾で隠し通してきた。だから、だから誰も自分を理解しようとしないのだ。わかっている。それでも、自らの薄暗い過去は絶対に誰にも知られたくはなかった。
「……殿下」
 恐る恐る声をかけられ、チャールズは怯えた表情で振り返る。その顔つきに、一瞬痛ましげに眉をひそめたエレンだったが、やがて柔らかな微笑を浮かべた。
「……王妃は、こうも仰せられていました。殿下は本当に努力家で、困難を克服した強いお子だと」
 チャールズは口を歪めて項垂れた。本当に、母はそう思ってくれているのだろうか。同じぐらい、父もそう思ってくれていたならどんなにか救われたことか。
「王妃はお幸せですわ。そして、殿下も」
 柔らかな温かい声色が胸に染み入る。俯いたチャールズをかき口説くように、エレンは身を乗り出して必死に呼びかける。
「お優しい王妃のお導きを信じていらっしゃれば、もっとお幸せになられますわ。どうぞこのまま、王妃のお言葉に従って下さりませ」
 その必死な様子にチャールズは眉をひそめた。
「殿下は未来の国王陛下です。この国の命運がかかっているのです。ですから、どうか正しい道を……」
「……ど、どういう、ことだ……?」
 戸惑いながらも問いかけるが、遠くから人の話し声が聞こえてくる。二人が同時に顔を上げると、中庭を挟んだ渡り廊下に女官たちの姿を認めた。
「……も、申し訳ございません。言葉が過ぎました……」
 エレンは少し恥じ入るように顔を赤らめ、か細い声で詫びる。そして、ドレスの裾を摘むと恭しく膝を折る。
「お許し下さいませ、殿下。……あの、私、そろそろ……」
「ああ、仕事の邪魔をしたな。……すまない」
「滅相もございません」
 チャールズは半ばほっとした心持ちで頷いた。もう一度深々と一礼するとエレンはその場を立ち去っていった。チャールズはそれまで溜め込んでいた息を吐き出した。と、肩をぽんと叩かれる。
「うわあああっ……!」
 思わず叫び声を上げるが口を押さえつけられる。
「私です」
 聞きなれた声で囁かれ、目を瞬かせると相手を捉える。そして、かっとなると手を振りほどく。
「お、お、おまえッ……! 驚かせるなッ!」
「見つけました」
 ヴィリアーズの言葉に口をつぐむ。彼はゆっくりと手をチャールズの目の高さに持ち上げた。「それ」を目にしたチャールズは思わず体を震わせて凝視した。
 彼が手にしていたのは、ぎっしりと針が突き刺さった針山だった。いや、針山のように見える「何か」だ。あまりにも夥しい数の針が突き刺してあり、本体が見えない。夕暮れの弱々しい光の下、鈍い銀色の禍々しい煌めきにチャールズはごくりと唾を飲み込んだ。思わず言葉が出てこない王子に、ヴィリアーズが静かに口を開く。
「エレン・モートンの衣装箪笥から出てきました」
「……何なのだ、これは」
 ようやく掠れた声で尋ねる。ヴィリアーズは「それ」を裏返しにして見せた。
「キングです。キングの駒です」
「……何だと」
 艶やかな黒檀に王冠と十字が刻まれたそれは、確かにチェスの「キング」だ。だが、直接針を刺しているのではなく、布が巻き付けられた上から突き刺されている。
「キングを針山にする行為は、充分罪に問えます」
チャールズは信じられないといった表情で顔を振る。そして、吹き抜ける秋風にぞくりと背筋を震わせるのを見てとると、ヴィリアーズは主の肩に手を添えて後宮へと導いた。
 人気のない後宮の廊下には毒々しい赤い絨毯が浮かび上がっていた。ランプの下で改めてキングの駒を見つめる。無数の縫い針が深々と突き刺さっている様をチャールズは気味悪げに顔をしかめる。
「……これが、父上とおまえを襲った激痛の正体だというのか」
 ヴィリアーズも眉間に皺を寄せて呟く。
「正に針で刺されるような痛みです。おそらく……」
 しばらくランプの明かりにかざして見つめていたチャールズは、恐る恐る指を伸ばすと縫い針を三本ほど摘む。自分を軽んじる父だが、それでも慕う気持ちが残るチャールズにとっては許せない行為だ。たかがチェスの駒とは言え、「王」の象徴ではないか。怒りが沸々と沸き上がるのを感じながら、針をぐいと引き抜く。と、
「ッ……!」
 ヴィリアーズが胸を押さえて床に蹲る。
「ヴィリアーズ?」
 チャールズが慌ててしゃがみ込むと、唇を噛み締めて胴着を掴んでいる。
「い、痛むのか。ま、まさか」
 王子の問い掛けに答えないままヴィリアーズは膝を突き、胴着を開いた。無言のまま肌着をはだけると、まだ痛々しい赤い湿疹が広がっている。が、彼は眉をひそめると低く呻いた。
「……湿疹が、減っています」
「なに」
 ヴィリアーズは乱れた前髪越しにチャールズを見上げた。
「抜いて下さい、殿下」
 その言葉にチャールズは息を呑んだ。目の下に隈を作り、痩けた頬に髪が張り付いた顔。大きく見開いた目がやけに目立つ。チャールズは幼子のように顔を振った。
「――できない」
「お願いします、殿下。自分では、できそうにありません」
「し、しかし、い、痛むのだろう。できない……!」
 しどろもどろに囁くチャールズにヴィリアーズは頭を俯けた。
「……殿下に抜いていただければ、堪えられます。痛みに堪えながら自分で抜くのは……、できません」
 他に誰もいない廊下の片隅で、チャールズはおろおろしたまま絨毯に座り込む。四つん這いになって俯いたままのヴィリアーズを見守っていると、どうしようもない不安ばかりが沸き起こる。
「……殿下」
 もう一度呼び掛ける。
「……お願いします」
 消え入りそうな声に、チャールズはごくりと唾を飲み込んだ。やがて、震える指で刺さった針を摘む。観念したようにぎゅっと目を閉じ、わずかに顔を背けると息を止め、引き抜く。
「うッ!」
「ヴィリアーズ……!」
「大丈夫です! ……大丈夫です……!」
 吠えるように口走るヴィリアーズに、チャールズは顔を歪めた。彼の苦痛を早く取り除いてやらねば。早く……! チャールズは意を決して再び針を掴むと、断腸の思いでむしり取った。

 突然の叫び声。夜具を跳ね上げ、言葉にならない悲鳴を上げる王に皆が総立ちになる。
「ジェームズ! ジェームズ! 落ち着いて!」
 アンが必死に夫に縋り付くが、夫は苦痛に顔を歪めて胸を掻きむしる。寝衣に毒々しい赤黒い血の染みが広がる。
「いかん……! なりません、陛下!」
 典医の叫びに侍従らが王の両腕を押さえ付ける。獣のように呻き声を上げるジェームズが体を捩り、寝衣がはだける。と、血が吹き出す湿疹があらわになり、アンが悲鳴を上げる。典医が布を押し当てた、その時。
「……これは」
 譫言のような典医の呻きに皆が身を乗り出す。と、皆の眼前で湿疹が小さく縮んでゆき、やがては完全に消え失せる。皆は無言で顔を見合わせた。
「……ああ……! あああ……!」
「ジェームズ……! しっかりして、ジェームズ!」
 アンが泣きながら夫を抱きしめる。しばらく髪を振り乱し、体を震わせていたジェームズだが、やがて呻き声は小さくなっていった。アンの耳に聞こえてくる喘ぎは少しずつ荒々しい息遣いへと変わってゆく。アンは恐る恐る顔を上げた。
「……ジェームズ」
 夫は弱々しく瞳を開いた。もはや激痛に歯を食いしばる表情ではない。憔悴しきった、気力を使い果たした面立ちにアンは涙ぐみながら髪を撫で付ける。
「ジェームズ、ジェームズ、大丈夫……?」
 彼は呆然とした顔付きで自らの胸を見遣った。典医がそっと胸元を拭うと、そこにはただひとつの湿疹も残っていない。
「……消えたわ。湿疹が、全て消えたわ。い、痛みは?」
 ジェームズはごくりと唾を飲み込んでから掠れた声を上げた。
「……余韻が、まだ……。、だ、だが、体が、軽い」
 その言葉に、アンの目から涙が溢れ出した。彼女は夫の首に両腕を巻き付けると咽び泣いた。
「よかった……。よかった、ジェームズ……!」
 ジェームズは疲れたように目を閉じると重たい手を上げ、妻の髪を撫でた。そして、顔を上げた彼女の額にそっと唇を押し当てた。





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