神の銃口

-第4話-  

  その頃、後宮の廊下では荒々しいふたつの息遣いが響いていた。蹲ったヴィリアーズと、ぺたりと絨毯に座り込んだチャールズ。二人の間には、きらきらと光る縫い針が山となっている。少なく見積もっても三十本はある。
「……ヴィリアーズ」
 震えながら囁きかけると、だいぶ経ってから相手は顔を上げた。と、汗がついと滴り落ちる。暗い影が覆い隠した表情はよく見えないが、半開きになった口からは不規則な呼吸が漏れ出ている。やがてそっと肌着を広げると、そこには元の美しいきめ細かな肌が現れる。湿疹は、跡形もない。
「……消えました」
 ヴィリアーズが疲れた笑みを浮かべながら呟く。
「痛みは、もうありません」
 その言葉にチャールズは涙を滲ませながら背中を丸めてしゃがみ込む。
「よかった……、よかった、よ、よかった……!」
 どもりながら囁く王子に、ヴィリアーズは溜息をつくと思わず肩を抱き寄せた。すると、思わぬことに相手も背中に両手を回してきた。瞬間、ヴィリアーズの胸が高鳴り、瞳に生気が戻る。思わず首を捩ると顎で襞襟を押し退け、細く白い項に唇で噛み付く。
 途端に悲鳴を上げたチャールズがヴィリアーズを突き飛ばした。尻餅をついた彼ははだけた胸を押さえながら情けない声を上げる。
「殿下……! あんまりです! 病み上がりですよ」
「き、き、貴様ッ! ど、どさくさに、紛れて!」
「感謝の意を表しただけではありませんか」
「黙れッ! 貴様など、一生呪われておれ!」
 唾を飛ばしながら怒鳴り散らすチャールズに、ヴィリアーズは苦笑いを浮かべながら肌着を合わせる。
「殿下に呪われるならば本望ですよ」
 何を言っても堪えない。チャールズは怒りで顔を真っ赤にしながら睨みつけるが、「キングは」と問われ、足元に転がっていたキングを拾い上げる。
「何か巻き付けてある」
 胴着を整えながらヴィリアーズが顔を寄せる。確かに、駒には針穴の跡が残る白い布が巻き付けられている。
「きっと意味があるのでしょう。意味がなければ直接刺せばいいのですから」
 その言葉に、チャールズは結わえ付けられている紐を解くと、巻き付いた布を慎重に剥がす。と、白い布に柔らかな黒っぽい糸屑のようなものが張り付いている。
「……糸?」
 ヴィリアーズが呟き、チャールズは顔をしかめて目を近付ける。鼻先まで布を覗き込み、しばし凝視していたかと思うと突然「ひっ!」と声を上げてキングを取り落とす。駒はごとりと床に転げ落ちた。
「殿下!」
「か、か……、髪の毛……!」
 チャールズはおぞましいものでも触れたかのように後ずさるともとらない口調でまくし立てた。
「お、おまえと、ち、父上の、髪の毛だ……!」
 ヴィリアーズの顔色が変わる。彼は床に落ちた駒を拾い上げると目を細めて髪の毛をつまみ上げた。
「ち、父上は明るい栗毛だ。おまえは……、黒に、近い、栗毛だ……!」
 確かに、布にへばりついているのは十数本の頭髪だった。ほとんど見分けがつかないほど似通った色合いだが、確かに微妙に違う髪だ。ヴィリアーズは眉間の皴を深めた。
「……あの時、寝台に残っていた髪の毛を」
 自分と王の情事の後に残された髪の毛を拾い集めたのか。
「……狙いは、父上だったかもしれぬ。だが、その髪に、お前のものも混ざっていたから、だから……」
 ヴィリアーズは無言で胴着を握りしめた。とんだとばっちりだ。おかげで、死ぬほど激しい苦痛に襲われた。
「あの娘……、あの娘が、本当に……」
 それでもチャールズは混乱した様子で呟いた。自分の苦悩にいち早く気づき、機転を利かせた女官の鑑。あの優しい微笑みは偽りだというのか。が、そこで眉をひそめる。脳裏にエレンの言葉が響く。
(王妃のお導きに従って……)
「……そうか」
 主の呟きにヴィリアーズが顔を上げる。
「母上はカトリックだ。……あの娘も、カトリックなのかもしれぬ」
 そして、ヴィリアーズが手にしたキングを凝視する。
「カトリックを弾圧する父上に、呪いを……。許さぬ。ただではおかぬ……!」
 踵を返そうとするチャールズの肩をぐいと押さえつける。
「お待ち下さい、殿下。まだ、これでは彼女を糾弾することはできません。自分ではない、と白を切られればそれまでです」
「ではどうすれば良いのだ!」
 いらいらした様子で吐き捨てる王子に、ヴィリアーズが声を低める。
「気になることがあります。彼女を知る者が申しておりました。『最近、ミス・エレン・モートンの様子がおかしい』と」
 チャールズは目を眇めて身を乗り出す。
「彼の話では、深夜に人目を憚りながら外を出歩いているということでした。……ひょっとすると」
「まさか……」
「黒幕がいるのかもしれません」

 その日は一日慌しかった。湿疹が消えうせたとは言え、体力が衰えた王のために医師が入れ替わり立ち代り出入りし、後宮は落ち着かないままだったのだ。通いの女官たちも後宮で足止めを食う形になり、エレン・モートンも例外ではなかった。そして、ジェームズの病状は見る見るうちに回復していった。青黒い顔色も血色が良くなり、寝息も穏やかになった。呪いが解けたからだと、チャールズもヴィリアーズもその確信を強めた。
 そして数日が経ち、気づけば十一月に入っていた。状況が状況だけに、ヘンリーの命日はささやかな慰霊の祈りが行われたに過ぎず、ようやく宮殿にも静寂が戻った。そして、それと同時に女官たちも帰宅の許可が降りた。

「黒幕がいれば、必ず動きがあるはずです」
 ヴィリアーズは自信ありげに囁いた。
「呪いをかけたはずなのに、陛下はご回復されたわけですからね。必ず、指示を仰ごうとするでしょう」
「……誰だと思う。黒幕とは」
「さぁて、それは……。カトリックには間違いないでしょうが」
 ヴィリアーズとチャールズが声を押し殺して囁き合っているのは、ホルボーンの路地裏。宝飾職人クリントの工房近くである。墨のように黒い夜空の下、二人はコートを着込み、体を寄せ合っていた。家々は鎧戸を下ろし、路地裏は暗闇に近い。この時間に灯りが漏れている建物と言えば居酒屋パブ ぐらいのものだ。それも、路地裏にまでは灯りは届かない。この路地裏の奥で闇に溶け込んだ妖しげな者たちが徘徊しているかもしれないと思うと、背筋がすぅと寒くなってゆく。
 湿り気を帯びた夜風がまとわりつくように吹きすさぶ中、チャールズは不機嫌そうにかじかむ手に息を吐きかけた。と、顔を上げたかと思うと二度三度とくしゃみをする。
「大丈夫ですか」
「寒い……。これで黒幕まで辿り着けたら良いものの、もしも風邪だけひいたらどうしてくれる」
「お風邪などひかせませんよ」
 そう言って覆いかぶさるように抱きついてくるヴィリアーズの腹を蹴り上げる。
「寄るな!」
「痛い……」
 腹を抱えながらも隙を見て再びチャールズに抱きつこうとして揉み合っていた二人だったが、不意の物音にぎくりと動きを止める。
 石畳に響く靴音。二人は息を呑んで壁に張り付いた。そして、ヴィリアーズが恐る恐る壁から顔をのぞかせる。足音はやがて近付いてくる。チャールズははち切れそうな胸を抑えた。
「……来ましたよ」
 ヴィリアーズの囁きに顔を上げる。息をひそめながら顔を壁から出すと、全身黒尽くめの人影が夜道を行く。その体の線は明らかに女だ。
「追いましょう」
 囁くや否や、そっと歩き出すヴィリアーズを慌てて追いかける。二人は足音を立てぬよう、ゆっくりと人影を追った。
 どこまで行くのだろう。二人はいぶかしげに黙りこくったまま歩き続けた。やがて、二人の前に黒々とした空間がぽっかりと現れる。
「どこだ」
「リンカーンズ・イン・フィールズですね」
 リンカーン法曹院が隣接する広場だ。真面目なチャールズはロンドンの街を出歩いたりはしないため、地理に疎い。二人の耳に響く靴音が早くなる。半ば駆けるような靴音に二人は焦りながら追いかける。ヴィリアーズが目を眇めて通りの先を見上げる。一軒のパブが弱々しい灯りを投げかけているのが見える。と、唐突に靴音が止まる。そして、どこかもつれるような勢いで靴音が響く。ヴィリアーズは眉をひそめた。ひとりだけの靴音ではない。それきり辺りはしんと静まり返った。二人は途方にくれて立ち尽くした。辺りを見渡しながらヴィリアーズがパブに向かって歩み寄った時。人影に気づいた彼は慌てて手近にあった大樽の影にチャールズを引きずり込む。
「おい……!」
「あそこです、見えますか……」
 ヴィリアーズの囁きに顔をしかめて振り仰ぐ。しばらく視線を彷徨わせていたが、ぎくりと体を硬直させるとその場を逃げ出そうとして押さえつけられる。
「駄目ですよ、殿下。ちゃんとご覧になって下さい」
「嫌だ……!」
 嫌がるチャールズの肩をぐいと押し込み、両手で顔を挟むと無理矢理前へ向ける。チャールズは眩しそうに目を細めた。
 パブの看板に据え付けられたランプの明かりが投げかけられた路上で、二人の男女が抱き合い、濃厚な口付けを交わしていた。女は縋りつくように相手の胴着を握りしめ、男は女の頭を掻き抱いて唇を重ねている。誰かに見られているなど露にも思わず、貪り合うように互いの唇を求める姿に、チャールズは罪悪感と羞恥心で頭に血が上っていくのをはっきりと感じた。
「……世の中、目に映るものが全てではありません」
 ぼぅとした頭に、ヴィリアーズの囁きが聞こえてくる。
「ですが、目に映るものも真実の一部です。受け容れねば」
 男の手が髪を撫でると女が被っていたフードがはらりと落ちる。と、そこに現れたのは紛れもなくエレン・モートンの赤毛だった。男は唇を離すと角度を変え、短い口付けを何度も落とす。
「……アンソニー様」
 エレンがせつなげに囁くと両腕を首に巻きつけ、艶かしい吐息をつく。
「エレン」
「逢いたかった。やっと逢えたわ……。長かった……!」
 涙混じりに囁くエレンに、アンソニーと呼ばれた男はあやすように肩を撫でながら額に唇を押し当てる。
「私も待っていた」
「王の呪いが……、解けてしまったの……!」
 呪い。チャールズとヴィリアーズは目を見開き、思わず顔を見合わせる。エレン・モートンは「呪い」という言葉をはっきりと口にした。
「呪いは確かに届いていたのに……! 誰かが解いてしまったのだわ!」
「落ち着いて、エレン」
 アンソニーは細い指先でエレンの涙を拭った。ヴィリアーズと大して違わない年恰好のアンソニーは古めかしくも洗練された美しい白い胴着を身につけている。理知的な広い額が印象的な、端正な顔貌の青年だ。チャールズとヴィリアーズは互いに息をひそめながらも身を乗り出した。
「あなたに教えてもらった通りにやったのよ。髪の毛をキングに巻きつけて針を刺したの! そうしたら、確かに王は痛みにもがき苦しんでいたわ。なのに……!」
 混乱した様子で口走るエレンをじっと見つめていたアンソニーはなだめるように優しく頭を撫でた。
「……確かに呪いはかけられたのだな」
 エレンは大きく息をつくと頷いた。
「そうよ! 数日間悶え苦しんでいたのに、二日ほど前から病状が回復してきたの……。誰かが呪いを解いてしまったのだわ!」
「キングは」
「どこにもないの……!」
 そう叫ぶとエレンはアンソニーの胸に顔を埋めてすがりついた。アンソニーは目を細め、思案深げに黙り込む。やがて彼は腰を屈め、エレンの耳元に薄い唇を寄せた。
「……残念だな。あともう少しだったのに」
 その呟きが耳に届いたヴィリアーズの背にぞくりと寒気が走る。
「……何だ、何と言ったのだ」
「しっ」
 ヴィリアーズの制止にチャールズは口を閉ざす。
「呪いが届いていたのなら王は神罰に触れ、命を落としていたであろうに……」
 エレンは呆然とした表情で顔を上げると愛しい恋人を見つめた。
「……これからどうなるの」
「これまで通りだ。我らカトリックは人目を避け、夜の闇に乗じて集い、息をひそめながらミサをあげる。……君との逢瀬も闇の中だ」
「嫌よ……、いつまでもこんな生活は嫌!」
 駄々っ子のように声を上げるエレンの頬を撫で、アンソニーは更に低い声で囁き続ける。
「あの男が王でいる限りは何も変わらない。呪いが成就していれば運命は変わっていたのだ。太陽の下で君と結ばれることも叶うのに」
 エレンの恋心を煽る言葉を発し続ける男に、チャールズは眉をひそめて唇を噛み締める。おかしい。何をさせるつもりだ、この男。
「どうしたらいいの」
 震えながら囁くエレンに、アンソニーは口を閉ざしたままじっと恋人を見つめる。端正なその顔立ちはややもすればひどく冷たいものに見える。しばらく口を閉ざしたまま見つめていたアンソニーは、やがて表情を変えないまま囁いた。
「王を消すしかない」
 瞬間、体を起こしかけたチャールズをヴィリアーズが咄嗟に押さえ込む。
「呪いが解けた以上、別の方法で王を消さねば。宮殿に出入りできる君ならやれるね」
 何て事を! チャールズの口を押さえつけていたヴィリアーズが目を剥く。
「私たちが結ばれるだけではない。イングランド中のカトリック教徒が救われるのだ。君は救世主になれる」
「アンソニー様……」
 アンソニーは身を乗り出すと鼻が触れ合うほどに顔を近づけ、熱っぽく語り続ける。
「あの男ひとりいなくなるだけでいいのだ。あの男ひとり! 私は永遠に君の側にいられる。君が、あの男を消してくれれば」
「……私、私が」
 焦点の定まらない瞳で譫言のように呟くエレンに、アンソニーの唇が蛇のように吊り上った。
「そうだよ」
 その冷徹な囁きに、チャールズはついに立ち上がった。隠れていた大樽ががらんと音を響かせ、恋人たちはぎょっとしてこちらを振り返る。
「貴様ら!」
 顔を真っ赤にして叫んだチャールズにヴィリアーズが慌てて腕を掴むが、それと同時にエレンが踵を返して駆け出す。
「待て!」
 声を限りに怒鳴るチャールズだったが、耳に剣が鞘を走る音が飛び込む。振り返りざまに自らも抜剣するとランプの明かりを受けた刃が襲い掛かる。剣を弾き返す鋭い音が路地裏に響く。
「殿下ッ!」
 ヴィリアーズの呼びかけにチャールズは短く「行け!」と叫ぶ。
「女を追え!」
 再び襲いくる剣の突きを交わしながら応戦する主の姿にヴィリアーズはごくりと唾を飲み込んだ。
「早く、行かんかッ!」
 奥歯をぎりっと噛み締めたヴィリアーズは後ずさりをすると背を向け、エレンの後を追った。
 路地裏では剣がぶつかり合う音が繰り返し響いた。アンソニーが繰り出してくる古風な幅広の剣は一撃一撃がずしりと重い。華奢な体つきのチャールズは必死で打ち返し続ける。と、相手がようやく攻撃の手を止めた。
「貴様、何者だッ!」
 上ずった声で叫ぶ少年にアンソニーは答えず、ただ薄ら笑いを浮かべる。
「父上に……、呪いをかけさせたのは、貴様かッ!」
「ほう」
 アンソニーは背を正すと見下した表情でチャールズを眺めてきた。その口許には明らかに侮蔑の色が見える。
「なるほど、君があの愚王の息子か」
「ち、父上を侮辱するかッ!」
 剣の柄を握りしめ、相手ににじり寄りながら叫ぶが、その胸は破裂しそうに波打っている。アンソニーはふんと鼻を鳴らした。
「聞けば、君は父王にずいぶんと虐げられているそうではないか。なのに、殊勝なものだな」
「だ、黙れ……!」
 眉間に皴を刻み、口を歪めて怒鳴り返すチャールズにアンソニーは含み笑いを漏らす。
「男に現を抜かす穢らわしい暗愚な父親だ。それでも……」
「黙れと言っているッ!」
 叫びながらチャールズは剣を振りかぶった。打ち返されながらも素早く体を入れ替え、息もつかずに突きを繰り出す。が、相手も慌てることなく受け流す。チャールズは無我夢中で剣を振るった。父を侮辱されたことにここまで怒りがこみ上げてきたことに、絶望しながら。
 二度三度打ち合うものの、怒りで冷静さを失ったチャールズの剣筋を読み取ったアンソニーは一気に畳み掛けて襲い掛かった。不意に懐に踏み込むと鋭く剣を振りぬく。
「……!」
 チャールズの剣がその手から弾き飛ぶ。全身が泡立ったかと思うと、魔法でもかけられたかのように体が凍りつく。その体に向け、アンソニーはチャールズの腹に剣を突き立てた。
「う……!」
 腹から背に走る熱い衝動。チャールズは身を震わせて前のめりに膝を突いた。
「あ……、あ……!」
 ゆっくりと視線を下げ、腹に深々と突き刺さる剣を凝視する。が、やがてその顔に恐怖と狂気の色が広がる。血が、流れ落ちないのだ。
「……どう、して……!」
 かすれた声で呻くチャールズに、アンソニーは目を細めてにやりと嗤った。そして、その手を剣の柄からゆっくり離す。と、剣はがちゃりと地面に転がり落ちた。チャールズの体を透り抜けて。
「……!」
 チャールズは震えながら体の真下に転がる剣を凝視した。そして、思わず腹を押さえる。確かに胴着は抉るように破かれている。だが、腹には傷ひとつつけられていない。あの衝撃は、間違いなく腹を貫通したのに!
 じゃり、と靴音が響き、チャールズははっと顔を上げた。灯りを背にした黒い顔が見下ろしてくる。ものも言えず、ただ黙って見上げるしかできない少年に、アンソニーはにぃと唇の端を上げた。
「……私が手を下すまでもない」
 その言葉にチャールズは顔を引き攣らせた。
「いつかは神の鉄槌が下される。それを楽しみに待つとしよう」
「お、おまえは……」
 やっとのことで、チャールズは擦れた声で囁いた。
「何者だ……!」
 恐怖に慄きながらもそう言い放つ王子に、アンソニーは馬鹿丁寧に腰を屈めて一礼してみせた。
「申し遅れました。アンソニー・バビントンと申します」
 バビントン。一瞬遅れて、チャールズはごくりと唾を飲み込んだ。バビントン……! アンソニー・バビントン!
「馬鹿な……!」
 まるで悪夢をみているようだった。目を見開いて震えているであろう自分を眺め、相も変わらずアンソニーは小気味良さげに含み笑いを漏らし続けている。
「あなたのおばあ様をお救い申し上げようとして命を散らした、アンソニー・バビントンですよ」
 アンソニー・バビントンは先代エリザベス女王の暗殺を企てた、いわゆる「バビントン事件」の主犯だ。スコットランド女王メアリーの小姓だったバビントンはエリザベスの暗殺を志願したが計画が露見し、共犯者と共に捕縛。死刑判決が下された。処刑は公開され、生きながら四肢を裂かれたという。そう、このリンカーンズ・イン・フィールズで! だがそれは、一五八六年のことだ。
「き、貴様は……、死んだはずだ。三十年も前に……、死んだはずだ!」
 我を忘れて叫ぶチャールズにアンソニーは笑みを絶やさぬまま答える。
「ええ、その通りですよ。ですが、あの男は裏切り者です。カトリック教徒でありながら信仰を捨て、国教徒に成り下がった。許しがたい罪です。誰もあの男を始末しないので、私が引導を渡そうと思いましてね」
 そこで言葉を切ると、エレン・モートンが去っていった方角を眺める。
「……偶然だったのですよ。まだこの地に留まる私の姿をあの娘が捉えた。これも、信仰の御力でしょうか」
「ふざけるな!」
 チャールズはそう叫ぶと夢中で立ち上がった。
「き、貴様……、父上を亡き者にするために、あ、あの娘を誑かしたのか! 罪もない、あの娘を!」
「罪?」
 アンソニーの美しい眉が吊り上り、両目がぎょろりと見開かれる。
「あの罪深い卑しい男を葬り去ることが罪ですか。イングランド中で虐げられ、闇に追いやられたカトリック教徒を救う行為が、罪ですか」
 反論を待たず、アンソニーは狂気に満ちた目でチャールズを凝視しながらゆっくりと歩み寄った。
「あの娘が望んだのですよ。日の当たる場所でカトリック教徒として幸せになりたいと。そのためには、あの男を殺すしかないではないですか!」
 チャールズはたじろぎながら後ずさった。何を言っても無駄だ。相手は亡霊だ。神の祝福を受けた生者ではない。そう思うと、背を向けて逃げ出したい気持ちに襲われるが、足が竦んでどうしようもできない。が、アンソニーは不意に柔らかな笑顔へと変わった。
「ひとつ、予言を残そう」
 予言だと。チャールズは顔を歪めて相手を見上げた。
「君が将来、命を懸けて愛する女は、カトリックだ」
 一瞬、何を言われたか理解できなかったチャールズは顔をゆっくりと振った。何を言っている? この男は、何を言っているのだ。アンソニーは勝ち誇った表情で顔を上げた。その顔が月明かりに照らされ、細めた目が嘲るように笑う。
「君はカトリックの女を愛したために国民から断罪され、首を落とされる」
 言葉を失い、ただ呆然と見つめることしか出来ないチャールズを鼻で笑うと、アンソニーは一歩後ろへと下がった。
「だが、君は幸運だ。首を落とされるだけだから。私のように生きながら体を四つ裂きにされるわけではないからね」
「……く、くび……」
 チャールズは顔を引き攣らせて口走った。アンソニーは相変わらず笑みを絶やさずに頷く。
「そうだよ。だから、今私が手を下すまでもない。体を裂かれるのは、気が遠くなるほどの苦しみだよ。わからないだろうね」
 押さえきれない笑いが漏れ出ると同時に、アンソニーの体の輪郭が崩れる。と思う間もなく青年の白い胴着に赤い染みが浮かび上がる。
「あ……」
 思わず声を上げるチャールズだったが、胴着は見る見るうちに赤く染まってゆく。ふふ、と不気味な笑い声が零れ、チャールズは顔を引き攣らせて後ずさった。アンソニーの広い額についと赤い糸が落ちる。一筋、二筋。赤く染まる顔が、にたりと嗤う。
 真夜中の路地裏に少年の悲鳴がこだまする。両手で頭を覆い、その場にへたり込む。手も、肩も、膝もがくがくと痙攣が止まらない。頭の中で必死に神への祈りを唱え続ける。まるで永遠のような時間の中。
「おい、どうした」
「ひっ!」
 短い悲鳴を上げて顔を上げると、居酒屋の主人やその客と思しき市民らが心配そうに歩み寄ってくる。
「さっきから剣の音が聞こえていたが、あんたかい」
 剣。はっとして足元を見下ろす。だが、そこにはアンソニーの剣はなく、黒々とした地面が広がっているだけだ。
「……そんな……」
 譫言のように呟くチャールズの頬を夜風が舐めるようにそよぐ。その冷たさに我に返ると背後を振り返る。
「……父上!」

 ホワイトホール宮殿の後宮では、医師の診察を終えたジェームズが寝台に痩せた体を横たえていた。
「快方に向かっております。執務にお戻りになれるのもあと少しでございましょう」
 医師の言葉にジェームズは嬉しそうな顔をしてみせた。そして、医師の背後に控えているストーン卿に目をやる。
「……チャールズは」
「市内警備の陣頭指揮をなさっておいでです」
「今宵も、サー・ジョージと共に」
 秘書官が言い添えるとジェームズは目を細めて頷いた。
「頼もしいな。ずいぶんと成長したものだ」
「誠に」
 そこで大きく息をつくとジェームズは体を起こしかけ、秘書官が慌てて背に手を添える。
「陛下?」
「礼拝堂へ行く」
 ジェームズは少し寂しげに呟いた。
「ヘンリーの命日に式典を上げてやれなかった。今夜は気分も良い。せめて礼拝堂で祈りを捧げたい」
 秘書官が医師を振り返ると、黙って頷く。ジェームズは夜具から抜け出すと秘書官の手を借りて床に降り立った。
「それから、ヘンリーに伝えてやりたい。弟がしっかり者に成長したことをな」
 その言葉に皆の表情が明るくなる。秘書官は顔をほころばせると身を乗り出した。
「それは良うございます。陛下、それならばぜひ王妃と共に」
「そうだな、アンを呼んでくれ」
 今回の一件以来、これまで冷戦状態だった国王夫妻は心を通わせ始めていた。この機を逃す手はない。側近らは慌しく四方へ散った。





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