神の銃口

-第5話-  

 入浴も済ませ、寝室へ向かおうとしていたアンに王の訪問が告げられた。
「ジェームズが?」
 少し迷惑そうな顔付きで尋ねたアンだったが、女官は笑顔で囁いた。
「ヘンリー王子の御命日をお祈りされたいそうでございます。それから……、この度のチャールズ王子のご活躍ぶりをご報告したい、と」
「まぁ……!」
 アンの表情がぱっと笑顔に変わる。そして、女官が差し出すガウンを羽織るといそいそと部屋を出る。
 後宮の大廊下に出ると側近らに支えられたジェームズを目にし、アンは少女のようにはにかんだ笑顔で駆け寄った。
「ジェームズ!」
 その弾けるような笑顔にジェームズは大袈裟に目を見開くと瞬かせる。
「おまえ、素顔の方がよほど見られた顔ではないか」
「あら」
 それでもアンはころころと笑いながら夫の腕を取った。
 国王夫妻のこれほど睦まじい様子を目にするのは実に何年ぶりであろう。側近らは内心そうぼやきながら付き従った。今では考えられないことだが、ジェームズは新婚当初、美貌のアンに心を奪われ、それまでの男の愛人たちを放って妻を溺愛したのである。だからこそ、ヘンリーを始めとした多くの子宝に恵まれた。にも関わらず、その子どもたちの多くを早くに失ってしまったことや、ジェームズの生来の性癖が改善されなかったことが二人を遠ざけてしまった。それが今、再び子を通じて結び付こうとしている。王と王妃の睦まじきは国の平安につながる。廷臣たちも必死だった。
 だが、ストーン卿はそうではなかった。カトリックを心の底から憎む彼は、カトリック教徒である王妃を蛇蝎の如く嫌っている。その上、アンは夫ジェームズとはまるで正反対の過去を持っていた。すなわち、プロテスタントであったにも関わらず、突然カトリックへと改宗したのだ。それはストーン卿のみならず、多くの人々から反感を買うこととなった。
(能無しの馬鹿女が)
 ストーン卿は苦りきった表情で一人ごちた。
(この女がいるせいで、宮廷における改革がままならぬのだ)
 そして、無邪気な笑顔で夫の腕を取るアンの横顔をじっと見つめる。
(……幸い、お世継ぎとなられるチャールズ王子殿下は敬虔な国教徒だ。お体が弱いことが心配であったが、今ではご立派にご成長された。……王妃の存在意義は、もはやない)
 やがて彼は口許にうっすらと笑みを浮かべつつ、顔を横に振る。
(いついなくなってもよい)
 側近がそのようなことを腹で考えているなど知らぬまま、王と王妃は新婚の頃のように和やかに会話を交わしていた。
「最近、チャールズが変わってきたとは思っていたのだ。だが、これほどまで成長しておったとはな」
「本当に頼もしいわ」
 アンがそう囁きながら夫の手を握りしめる。
「……チャールズは、ヘンリーになろうと躍起になっておるな」
「え?」
 ジェームズは寂しげに溜息を吐き出すと妻の肩を撫でた。
「ヘンリーにはなれぬ。……チャールズはチャールズなのだから。そのままで良い」
 夫の言葉にアンは眉をひそめた。今頃? 今頃になってそんなことを? だが、それをぐっと抑えると身を乗り出して必死に囁く。
「そうよ。あの子はあの子のままでいいの。そう言ってあげて。きっと安心するわ」
「そうだな」
 アンは安堵の表情で微笑んだ。きっと、これから夫と息子は良い関係になれる。まだ間に合う。これも、ヘンリーのおかげだ。あの子が結びつけてくれたのだ。アンは期待とせつなさで目を潤ませると、夫に抱きついた。
と、唐突に背後から石の床を蹴る甲高い靴音が響く。皆がぎょっと身を竦めた瞬間。
「ジェームズ・ステュアート!」
 狂気に満ちた女の金切り声に振り返る。そこには、血のように赤い髪を振り乱した女が青白い手を真っ直ぐに突き出していた。その手には。
(拳銃!)
 短い悲鳴。皆が王と王妃に向かって駆け寄り、ジェームズは咄嗟にアンを抱き締めて背後へ追いやる。エレン・モートンの細い指が引き金を引いた、瞬間。
 乾いた銃声と同時にエレンの体が前方へ飛び出す。と、どさりと大廊下の石畳に叩きつけられる。彼女の腰には、必死の形相をしたヴィリアーズがしがみついていた。
「スティーニ!」
 王の叫びがこだまする。そして、人々の耳に低い呻き声が聞こえてきた。
「ストーン卿……!」
 秘書官の悲鳴。老人は胸を押さえるとその場に崩れ落ちた。
「ストーン卿!」
 倒れたのが王ではなく、別の者だと知ったエレンは血走った眼で顔を上げた。
「離せ……! 離せ!」
 腰を押さえつけるヴィリアーズに喚き散らすと拳銃を振り回し、再び銃声が響く。人々の悲鳴と共に燭台が砕け散る。
「取り押さえろ!」
 秘書官の怒号に侍従らがエレンに掴みかかる。
「離せ! 離せ! 触れるな! 穢らわしい国教徒どもが!」
 美しいはずの顔は憎悪で歪み、蛇の舌のように赤い髪が暗い大廊下で踊るその様に皆はぞっとして息を呑んだ。そして、その娘が自らの女官だと気づいたアンは顔を引き攣らせた。
「……エレン? エレン……!」
 エレンは侍従らに取り押えられ、駆けつけた衛士に引き渡された。
「スティーニ……! スティーニ、無事か、怪我はないか!」
「……大丈夫です」
 全身を震わせる愛人を抱き締めるとジェームズは秘書官を呼びつけた。
「女を拘束しろ……! 魔女だ。魔女に違いない!」
 だが、王の腕の中で震えていたヴィリアーズは視線を彷徨わせると治安判事の姿を探した。倒れたストーン卿の傍らには秘書官が跪いている。やがて彼は顔を振ると開いたままの瞼をそっと撫でた。
「……残念です」
 その言葉に皆が振り返る。
「ストーン卿……」
 ジェームズが呻くと、ヴィリアーズは真っ青な顔で譫言のように口走る。
「……へ、陛下を……、陛下を、お、お守りするはずだったのに……! なのに、なのに……!」
「おまえのせいではない!」
 ジェームズが鋭く怒鳴る。そして愛おしげに愛人を抱き締めると必死に呼びかけた。
「おまえのおかげで命拾いした。私だけではない。アンも無事だったのだ……!」
 それでも、衛士たちがストーン卿の遺体を運ぶ様子をヴィリアーズは泣き出しそうな顔で見送った。もっと早くエレン・モートンを取り押えていれば、ストーン卿は……。
「今に呪われる! 世界中のカトリックが呪うのだ! ジェームズ・ステュアート! おまえをな!」
 エレンの気違いじみた叫びにはっと現実に引き戻される。
「私が手を下さなくとも、別の誰かがおまえを葬るのだ! あははははは!」
 裂かれんばかりに開いた唇から下卑た笑い声が迸る。衛士たちが暴れるエレンを締め上げ、その場から連れ出す。と、そこへようやく駆けつけたチャールズが姿を現した。
「……父上、母上……!」
 両親、そしてヴィリアーズ。三人の姿を目にしてから喚き散らしている女を振り返る。
「……エレン・モートン?」
「陛下の暗殺を企てた女です」
 秘書官がチャールズの耳元で囁き、王子は顔を歪めた。
「……違う。そうではない……!」
「は?」
「あの女は誑かされていたのだ。亡霊に心を奪われ、亡霊に意のままに操られたのだ。気が狂った女だ、罪はない!」
「殿下!」
 猶も訴えようとしたチャールズの言葉を遮る叫び。少しふらつきながらやってくるとヴィリアーズはチャールズに縋りつくように跪いた。
「……陛下も王妃もご無事です。それで良いのです!」
「……ヴィリアーズ」
 チャールズはまだ震えが止まらないヴィリアーズを見つめると、息を吐くと力強く手を握り締めた。

 エレン・モートンは国王ジェームズ暗殺未遂、及び、治安判事ストーン卿を殺害した犯人として逮捕され、ロンドン塔に投獄された。明らかな現行犯だったにも関わらず、律儀にも裁判が開かれ、結果、死刑判決が下された。その翌日のこと。
 ホワイトホール宮殿に参内したチャールズを待ち構えていたように、アプローチにはジェームズの秘書官が出迎えていた。
「殿下、お伝えしておきたい儀が」
 周囲の目を気にする素振りを見せながら、秘書官は声をひそめて耳元に口を寄せた。
「エレン・モートンが死亡しました」
 チャールズは無言で目を見開いた。秘書官は強張った顔つきで言葉を続ける。
「額を撃ち抜かれていました。即死でしょう」
「……何故だ。死刑判決が出ていたのに、何故牢獄内で」
「不可解なことばかりでございます。明らかな銃殺であるにも関わらず、誰も発砲音を耳にしておりませぬ。そして、弾丸も見つかっておりませぬ」
 ますます混乱したチャールズは言葉を失った。誰が、何の目的で、どうやってエレン・モートンを殺したのだ。秘書官は表情を変えないまま顔を横に振った。
「……皆目、見当がつきませぬ」
 二人はそれきり口をつぐんで沈黙した。大廊下のざわめきが潮騒のように漂ってくるが、それすら不気味な悪霊の囁きに聞こえる。チャールズはごくりと唾を呑みこんだ。
「あまりにも謎が多過ぎます。……ひょっとすると、神の御裁きかもしれませんな」
 神の御裁き。チャールズは青白い顔のまま眉をひそめた。そんな若い王子に、秘書官は息をつくと居住まいを正した。
「しかし、陛下と王妃がご無事で何よりでございました」
 どこかほっとした声色にチャールズは釈然としない様子で言い返した。
「だが、ストーン卿が死んだのだ。心が晴れぬ」
「仰せの通り。ですが、殿下」
 秘書官は腰を屈めてチャールズの耳元で囁く。
「陛下や王妃がご無事だったことに意義がございます。陛下がご無事ということは、イングランドも守られたのです」
「しかし……」
「殿下、よくお考え下さいませ」
 目を上げると、秘書官は鋭い眼差しで射るように見つめ、ゆっくり諭すように囁く。
「ストーン卿はカトリック弾圧の急先鋒でございました。その彼が亡くなったのです。イングランドに巣食うカトリック教徒たちは溜飲を下げ、しばらくはおとなしくなりましょう」
 その言葉は鉛のように重い衝撃を与えた。チャールズは何か言い返そうにも言葉が見つからなかった。
「すべては王家と国益を守るためでございます。事件はもう終わったのです。……殿下のご生誕日も近いことですし」
 秘書官の言葉を最後まで聞かず、チャールズは重い足取りで踵を返した。

 セント・ジェームズ宮殿はどこか落ち着かない空気に満ちていた。宮殿の主であるチャールズの誕生日を祝うべく、少しずつ華やかな装いが進められる一方、ヴィリアーズの異常とも言える空元気ぶりが皆を困惑させていたのだ。大はしゃぎで祝賀の準備に勤しんでいたかと思うと不意に姿を消し、沈んだ表情で部屋に引きこもる。その繰り返しに、人々は「さすがのサー・ジョージも落ち込んでいるらしい」と囁き合っていた。王を助けるつもりの行動がストーン卿を死に至らしめてしまった。そのことは思った以上にヴィリアーズの心に深い傷を残したらしい。チャールズもそんな本人のためにあえて声をかけることはせず、好きにさせていた。

 そして、誕生日の前夜。いつもと変わらない晩餐を済ませると、チャールズは寝室へと引き取った。
 その日の晩はなかなか寝付けなかった。いや、ここ数日ずっとそうだ。アンソニー・バビントンの血塗れの笑みが瞼にこびり付いて離れない。そして、あの予言も。
「君は首を落とされる。カトリックの女を愛したためにね」
 ただの妄言だ。私を混乱させようとしただけの取るに足らぬ戯言だ。チャールズはそう言い聞かせて眠りにつくために長い長い時間を要した。あの亡霊は今でも自分の胸に巣食ったままだと思うと、言いようのない悔しさと恐怖に襲われる。その恐怖から逃れるため、無理矢理にでも眠りの国へと旅立つ。だが、逃れた先にも亡霊は現れた。

「ご覧下さい、殿下」


 暗闇に屹立する血塗れの青年。広げた両手の指先から鮮血が滴り落ちる。

「腕と足をね、裂かれたのですよ」

 やめろ!

 闇に向かってチャールズは叫んだ。

 何故……、どうして私を苦しめる……! 私が何をした!

「あなたがあの王の息子だからですよ。カトリックを裏切った男の息子。あの男の罪を、あなたが贖うのですよ」

 チャールズは両手で頭を抱えて蹲る。

 もううんざりだ……! 父上のせいで苦しむのはもうたくさんだ……!

「チャールズ」

 

 ぎくりとして顔を上げる。温かい手が頭を撫で、そっと抱き締めてくる。


「大丈夫だ。安心しろ、チャールズ。おまえは私が守る」

 

 懐かしい声。チャールズは夢中でしがみついた。

 兄上……、兄上……! 怖いよ……、怖いのは嫌だ!

「怖い時は怖いと言いなさい。おまえには側にいて守りたいと思う者がいるのだから」

 私には、そんな者は……。

 大きな温かい手に優しく撫でられていると、恐怖が少しずつ和らいでゆき、やがて周りの暗闇が人肌のような温もりへと変わる。幼子に戻ったような安堵と共に、チャールズはようやく安らかな眠りに導かれようとしていた。
「……あ、にうえ……」
 眼を閉じたまま手をぎゅっと握る。が、相手は動きを止めた。
「……あにうえ」
「殿下」
 耳元で囁かれる声。チャールズは目をうっすらと開いた。
「私です。殿下」
 低い囁き声にぼんやりと顔を上げる。と、すぐ目の前にヴィリアーズの顔が。互いの唇が触れ合うほどの近さにチャールズは声を上げて相手の頬を張り飛ばした。
「っ……!」
「な、何をしている、貴様ッ!」
 金切り声で責め立てると、ヴィリアーズは殴られた頬を押さえながら寝台に蹲った。
「……申し訳ございません」
「何をしていると聞いているのだ!」
 主に責められ、しばらく背を丸めて黙り込んでいたヴィリアーズは、やがて左手で懐を探った。
「お許し下さい。……誰よりも先に、殿下のご生誕日をお祝いしようと」
 生誕日。思いもよらない言葉にチャールズは息を呑んだ。ヴィリアーズは懐から小さな革の小箱を取り出すと静かに差し出す。ランプの弱々しい明かりの下でチャールズは眉をひそめ、小箱を受け取った。黙ったまま蓋を開けると、そこに柔らかな乳白色の雫が浮かび上がる。と、寝室は深い海底のような蒼い闇へと姿を変えた。真珠の耳飾り。小さな王冠を被せられ、温かな光を放つ真珠に、チャールズは困惑の表情でヴィリアーズを凝視した。
「……これは」
「あなたのために作らせたものです。……受け取って下さいますか」
 叱られた子猫のようにしおらしい佇まいで呟くヴィリアーズに、チャールズは思わず頬が紅潮していくのを感じて目を逸らした。自分の勘違いに気まずい思いが湧き起こる。その思いは、彼に心にもないことを口走らせた。
「……そこまでして、成り上がりたいのか」
 かすかに震えながら呟かれたその言葉に、ヴィリアーズの眉が吊り上がる。
「出世のために、このように高価なものを購ったというのか、おまえは」
 頬を押さえていた手がゆっくりと下ろされる。が、チャールズは気づかずに言葉を続けた。
「こんなもので、私の心を繋ぎとめようと」
「殿下!」
 突然の叫びと共に両肩を掴まれ、チャールズは両目を見開いた。
「そうですよ、全ては立身出世のためです! 爵位を得るためです!」
 真正面から噛み付くように怒鳴り散らされ、チャールズは声も上げられずに相手をただ呆然と見返すしかできなかった。薄暗がりであっても、ヴィリアーズの獰猛な瞳は剣呑な光を発している。
「今の私にはサーの称号しかない。このままの身分ではあなたの側に居続けることはできないのですよ! いずれは国王となるあなたの側にいるためには、爵位が必要なのです!」
 そこで顔を伏せると、ヴィリアーズは悔しさを滲ませた声で搾り出すように呻く。
「……そのために、私は望みもしないことを……。あなたが、王になるまで……、陛下に抱かれ続ける……!」
「ヴィリアーズ」
 チャールズの呼びかけに顔を上げると、主は顔を強張らせたままじっと見つめてきた。しばらくの沈黙の後、チャールズはゆっくりと手を上げ、鬢の後れ毛を左耳にかけた。
「着けろ」
 短く言い放つと、それきり唇を閉ざす。ヴィリアーズはごくりと唾を飲み込むと掴んでいた肩を離した。耳飾りをそっと取り上げると、首を傾けて差し出された耳に恐る恐る手を伸ばす。暗い明かりの下で、耳朶が真珠を纏う。
 耳元で揺れる乳色の雫をそっと撫でるチャールズに、ヴィリアーズはようやく表情をゆるめた。まったく、どこまでも強情なお方だ。だが、彼はそこで再び顔を引き締めた。
「……殿下、その、もうひとつお願いがございます」
 なんだ、と言いたげに振り向いたチャールズにもう一度懐に手をやり、おずおずと何かを差し出す。
「……何だ、それは」
 ヴィリアーズの手には、同じ耳飾りがもうひとつ。
「自分用に作らせました。……揃いのものを身に着けてもよろしいでしょうか」
 その言葉にチャールズは呆れたように口を半開きにした。ヴィリアーズは思わず顔を赤らめて目を伏せた。やはり、揃いの宝飾はやりすぎだったか。だが……。
 ふん、と鼻で笑う気配に顔を上げる。仄暗い闇の中で、チャールズの苦笑が出迎えた。
「好きにしろ」
 瞬間、ヴィリアーズの顔にほっと安堵の笑みが咲いた。

 翌朝。華やかな飾り付けがなされた馬車がホワイトホール宮殿に乗り付けられた。馬車から王子が降り立つと、侍従たちは跪いて出迎える。
「おはようございます、殿下。ご生誕日おめでとうございます」
「ありがとう」
 短く答えてアプローチを見上げると、宮殿は煌びやかな装いに包まれ、着飾った貴族たちが所狭しと待ち構えている。そして、その中央には晴れやかな笑顔の母が。
「チャールズ!」
 階段を上がった息子にアンが飛びつく。
「十五歳のお誕生日、おめでとう!」
 チャールズは少し気恥ずかしげにはにかむと母を抱き締めた。
「ありがとうございます、母上」
「さぁ、父上が待っているわ」
 そう言ってチャールズの腕を取ると、彼の項に白い光を見つけたアンは目を見開いた。
「あら、真珠?」
 左耳に揺れる王冠を戴いた大粒の真珠。チャールズは黙ったまま微笑むばかりだ。
「おはようございます、王妃」
「おはよう、ジョージ!」
 ヴィリアーズの声にアンが振り向き、「まぁ!」と声を上げる。
「お揃いじゃない!」
 さすが、女は目敏い。ヴィリアーズは極上の笑顔で右手を胸に添えると恭しく一礼した。
「本当に仲良しね、あなたたちは」
「仲良しかどうかは存じ上げませんが」
「チャールズったら!」
 アンは上機嫌で笑いながら息子の手を引いた。
 貴族たちに見送られながら大廊下を行き、大広間に到着すると万雷の拍手で迎えられる。普段人々からこんな歓迎をされることがないチャールズはどこか冷めた心持ちでありながら、笑顔を装ってみせた。
「チャールズ」
 玉座の前ではジェームズが両手を広げて待っていた。
「おめでとう。この度は本当に良くやった。成長したな」
 父に抱き締められ、チャールズはようやく心からの微笑を浮かべた。今回の一件以来、父とは少しわだかまりが解けた。これまで抱えていた、幾重にも重なった孤独の闇は簡単には晴れないだろうが、少しずつ薄らいでいくはずだ。そう信じながら父の温もりを感じ取る。
「おまえの為に色々と用意させたぞ」
 侍従らが次々と贈り物を運んでくる様子に、チャールズの胸はひそかに子どものように躍らせた。光輝く馬具一式や、細やかな細工が施された剣。母からは何着もの衣装。披露されるたびに人々の歓声が沸き、嬉しそうに手に取るチャールズにヴィリアーズはほっと胸を撫で下ろした。十五歳になったとは言え、これまで充分な愛情と安らぎを与えられていなかったのだ。もっと子どもらしい安息を与えてやらねば。そんなことを考えていた矢先。
「チャールズ、実はもうひとつ用意しているものがあるが、それは来年与えようと思っている」
 突然のジェームズの言葉にチャールズは首を傾げた。
「来年、でございますか」
「そうだ」
 ジェームズは表情を引き締め、息子を正面から見据えた。
「チャールズ。来年、おまえを王太子プリンス・オブ・ウェールズに叙位するつもりだ」
 瞬間、皆が息を呑んだ。ヴィリアーズが咄嗟に王を振り返る。そして、大広間は割れんばかりの喝采に包まれた。アンが悲鳴のような歓声を上げながら息子に抱きつく。
「チャールズ……! おめでとう、チャールズ!」
 当の本人は父の言葉をすぐには理解できず、ただ呆然と目を見開くばかりだ。母に頭を掻き撫でられながら、彼はおろおろとした表情でやっと口を開く。
「……わ、私が、お、王太子に……?」
 ジェームズは目を細めると頷いた。
「すぐにはなれぬ。今から王太子になるための修行を始めるのだ。勉学好きなおまえならすぐに王太子に相応しい教養を身につけられるだろう」
 それでもまだ驚きが隠せないチャールズは怯えにも似た表情で視線を彷徨わせ、ジェームズは息子の肩を力強く叩いた。
「自信を持て。王太子になることは、王になる第一歩だ。おまえはヘンリーのように立派な王太子になれるはずだ」
 大好きだった兄の称号を、受け継ぐ日がやってくる。チャールズは喜びと寂しさと、それを上回る不安で胸が一杯になった。兄を慕い、兄を追いかけ、兄に引け目を感じていた日々。これから、その兄と同じ場所に立つ。
「おめでとうございます、殿下!」
 耳元で囁かれ、顔を上げる。そこにいたのは、自分と同じ真珠を身に纏った青年。ヴィリアーズは嬉しそうにチャールズを短く抱き締めた。そんな愛人に向かってジェームズが満足げな表情で呼びかける。
「スティーニ、おまえにも授けるものがあるのだ」
 ヴィリアーズは目を見開いて王を振り仰いだ。
「ジョージ・ヴィリアーズ、そなたにはホワッドン男爵位及び、ヴィリアーズ子爵位に叙位する」
 その場にどよめきが上がる。ジェームズはゆるみきった表情で言葉を続けた。
「来年、チャールズと共に受けるが良い。チャールズ、おまえの王太子として最初の臣下だ」
 ヴィリアーズは呆然と王を見つめていたが、やがて見る見るうちに喜色が広がる。騎士の称号しか手にしていなかった王の愛人が、ついに爵位を賜った。きっとこれを足掛かりに、目にも留まらぬ速さで出世街道をひた走るはずだ。人々の目に羨望と嫉妬の色が浮かぶ。
「殿下……!」
 滲み出る嬉しさを隠しもせずに呼びかけるヴィリアーズに、チャールズは黙ったまま頷いた。彼は背をかがめると主の耳元で熱っぽく囁いた。
「見ていて下さい、殿下……! 私はこれからも成り上がってみせます! あなたに一番近い場所まで!」
 それに対し、チャールズは薄く笑っただけだった。そして、耳の真珠を揺らしながら背を叩かれる。それだけでヴィリアーズは天にも昇る思いだった。
「おめでとう、チャールズ。これであなたもついに王太子ね」
 母の言葉にチャールズは素直に嬉しそうに一礼してみせる。そんな礼儀正しい息子に目を細めながら、アンはこんなことを言い出した。
「王太子になるのであれば、そろそろお妃を決めないと」
「妃、でございますか」
 チャールズはぎくりとして問いかけた。
「ふむ、そうだな。そろそろ考えねばな」
「し、しかし、私には、まだ早うございます」
 同意を示す父に、チャールズは口ごもりながらも反論する。心なしか、その顔色は青い。
「早くなんかないわ。遅いぐらいよ。私はね、スペインのマリア・アナが良いと思うの」
「スペイン? カトリックではないか」
 カトリックという言葉にチャールズは息が止まるほどの衝撃を受けた。カトリックの、女……。青白い顔で目を見開く息子に気づかぬまま、国王夫妻は会話を続けてゆく。
「ぜひカトリック教国からお妃を迎えるべきだわ。カトリックの王太子妃であればカトリック教徒たちは安心するし、何よりも教皇様がお喜びになられるわ。イングランドはヨーロッパのカトリック教国をいつまでも敵に回すべきではないもの」
「それも一理あるが……」
 〈空っぽの王妃〉の思いもよらない理路整然とした説得に、側近たちは青くなった。確かに、カトリック教国から妃を迎えればカトリック教徒たちはおとなしくなろう。だが、国民の大多数を占める国教徒たちは反感を覚えるはずだ。とは言え、スペインやフランスといったカトリックの大国と一触即発の状態を続けるのも得策ではない。それはわかっている。空っぽの王妃の分際で、王にとんでもない知恵をつけられては困る!
「しかし、スペインとは先代エリザベス女王の御世より並々ならぬ確執がございます。交渉は難航するものと予想されます」
 秘書官の慎重な言葉にアンは無邪気な笑顔を向ける。
「スペインが駄目ならフランスでも良いわ。ほら、ルイには妹がいたでしょう」
「アンリエット・マリー王女でございますね。六歳におなりのはずです」
 フランス帰りのヴィリアーズの言葉にチャールズは呆気に取られて振り返る。
「六歳……! こ、子どもではございませんか!」
「あら、私とジェームズも八つ違うのだし。歳の差は問題ないわ」
「しかし……」
 動揺した様子のまま言い淀む息子に構わず、ジェームズは思案顔で顎をさする。
「スペインにしろ、フランスにしろ、早々にチャールズの縁談に取り掛からねばなるまいな。未来の王太子妃は未来の王妃だ」
「そうよ。チャールズなら大丈夫。きっとお妃を愛する良い夫になるわ」
 未来の王妃。妃を愛する。その言葉がやけに耳朶に響く。周囲のざわめきが遠ざかり、チャールズは誰からも離れた異空間に取り込まれたかのように立ち尽くした。

「君は首を落とされる。カトリックの女を愛したためにね」

 バビントンの囁きを振り払うように頭を振る。亡霊の空言に惑わされてたまるか……! 私は未来の王。未来のイングランドのために妃を迎え、子孫を繁栄させねばならない。亡霊を怖れるなど……。
 焦点の定まらない瞳で呆然としていたチャールズの耳に、不意に息がかかる。
「怖いのですか」
 びくりと体を震わせて顔を上げる。そこには、柔らかな微笑を浮かべたヴィリアーズが佇んでいた。
「大丈夫ですよ。王太子殿下になられても、国王陛下になられても、私はいつでもあなたのお側におります。いつかお迎えになられる、お妃よりも近い場所で」
 妖しさが滲み出た笑顔に見つめられながらも、その目を逸らせることができないチャールズは、ごくりと唾を飲み込んだ。だが、やがて深く息を吐くと目を伏せ、低く呟く。
「……好きなだけ側にいろ」
 その言葉にヴィリアーズはにっと笑った。そして、主の手を握りしめるとそっと離す。王の呼びかけに応じて歩み去ってゆくヴィリアーズを見送りながら、チャールズはもう一度息を吐いた。
 だが、チャールズは知る由もなかった。まだ子どもだと言い捨てた、アンリエット・マリー・ド・ブルボン。彼女こそが運命の女性だということを。

終幕


 


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