「少ないながら、トゥリーの兵も呼び寄せました。イングレスでは何が待っているかわかりませんからね」
クレド城では、ジョンが普段よりもやや興奮した面持ちでマリーエレンに話しかけていた。
「王太后は以前から人望のあるお方ではありませんでしたから、宮廷でキリエ様を歓迎する者も多いのではないでしょうか。とは言え、油断はできませんが」
「そうね……」
マリーの気のない返事にジョンが振り返る。マリーは眉間に皺を寄せ、窓から夜空を見上げている。
「マリー様?」
ジョンの呼びかけに、はっと我に返ったように慌てて振り返る。
「……ごめんなさい」
「……どうなさったのです?」
「……嫌な予感がするわ」
マリーの一言に、ジョンは思わず黙り込んだ。
「今更、もう後に引けないことはわかっているけれど……。明日、イングレスでキリエ様が王位宣言を行ったとして、本当にムンディ大主教は戴冠を認めてくださるのかしら。そして、戴冠できたとしてもその先は……。不安なことばかりだわ」
「……エスタド、ユヴェーレン、クラシャンキ帝国……。大陸の列強は、君主不在のアングルを狙うでしょう。アングルの王位継承権を持つガリアのギョーム王太子の反応も気になります」
ジョンは重々しく息をついた。
「ルール公に対抗できるだけの組織が必要ですね」
「レスターが色々情報網を張り巡らしているけれど……、時間がないわ」
マリーエレンはちらりと青年に視線を投げた。生真面目な顔つきに不安の色を滲ませ、頭の中で必死に様々な言葉を探しているのが見てとれる。
「……ごめんなさい、ジョン」
「はい?」
「あなたも巻き込んでしまったわ」
その言葉にジョンは顔を強張らせ、居住まいを正した。
「いいえ。私が自ら志願したのですよ。義兄上のためでもありますが、姉のため……、そして私自身の誇りのためです。マリー様がお心を痛めることはありません」
真っ直ぐに目を見て言い切るジョンに、マリーは寂しげに微笑んだ。
「……ありがとう」
そして再び夜空を見上げ、小さく呟いた。
「もう、あれから八年ね……」
温かい腕に抱かれ、微笑みを浮かべたたくさんの人々にのぞき込まれている。そのうちのひとりが自分を抱き上げ、周りに笑い声が上がった。やがて床に降ろされ、手を引かれると覚束ない足取りでゆっくりと歩む。と、不意に背後から悲鳴とどよめきが起こり、振り返った瞬間、風を切る音が耳を突く。瞬間、視界が暗転した。暗闇のまま、人々の悲鳴と怒号、金属がぶつかり合う音などが続く。不安と恐怖に駆られ、泣き叫ぶ。その時、怒り狂った男の罵声が響いた。
「気でも触れたか! その娘を殺せッ!」
そこでキリエは目を覚ました。
「…………」
両目を見開き、荒い呼吸を繰り返す。喉元には生暖かい汗が流れている。幼い頃から時々みる夢だ。特に、疲れた時や悩み事がある時などが多かった。久しぶりにみた悪夢に、キリエは不吉な思いで喉元の汗を拭う。
この夢をみた時、いつも思うことがあった。気が触れた娘とは、一体誰なのか。それが、もしも自分のことを指しているとしたら……。キリエは表現しようがない重苦しい不安と罪悪感で部屋を見渡した。石造りの重々しい雰囲気の寝室。今まで使ったこともなかった天蓋付きの寝台。上質のシーツに、美しい刺繍の施されたキルトが掛けられている。窓からは青白い月光に照らされた樫の木が黒々と枝葉を伸ばしていた。
夢のせいで寝付けなくなったキリエは、とうとう我慢できなくなってそっと寝床から抜け出した。静かに扉を開け、暗い廊下に出る。廊下の壁に所々燭台が置かれ、ちらちらと明かりが揺れている。ベネディクトの寝室はどこだっただろう。小さな教会から出たことがなかったキリエにとって、巨大なグローリア城は迷路のような場所でしかなかった。暗い廊下を不安げに歩き出してしばらくすると、
「……キリエ……」
誰かに名前を呼ばれたような気がして立ち止まる。
「……誰……?」
「……キリエ」
小さな声がした。そちらを振り返るが誰もいない。キリエは声がした方へ歩き出した。衣擦れの音がする。
「誰……?」
もう一度呼びかけるが答えがない。キリエは暗い廊下で転ばぬよう、壁伝いに小走りに歩く。
「キリエ……」
女の声だ。誰だ。キリエは恐怖や不安もなく、声を追いかけた。声の主はキリエの歩みを待つかのように時々呼びかけ、衣擦れの音を合図のようにして彼女を導いた。何回か階段を上がり、さすがに息を切らしたキリエは立ち止まって呼吸を整えた。その時、
「キリエ」
「ひっ!」
唐突に名を呼ばれ、短い悲鳴を上げる。
「……は、伯爵様!」
胸が割れんばかりに波打ち、キリエは上ずった声で囁いた。暗がりからジュビリーが足音も立てずに歩み寄る。
「どうした」
「……あ、あの……」
キリエは思わず金縛りにでもあったように立ち尽くした。ジュビリーは顔をしかめ、わずかに首を傾げる。
「……どうやってここまで来た」
「…………」
城内を出歩いたことを咎められたようで、キリエは青くなって黙り込んだ。怯えた表情に気づいたジュビリーは慌てて言い直す。
「眠れなかったのか」
黙ったまま見つめてくるキリエに、ジュビリーは少し穏やかな表情を見せた。遠くの燭台の灯火が、二人の顔をぼんやりと照らす。
昼間と違ってキリエは頭布を被っておらず、わずかに波打った濃い栗毛が印象的だった。ジュビリーは目を細め、体を固くしている少女を見つめた。修道女の服を脱いだとしても、身も心もまだ修道女のままだ。その身に王の血が流れていなければ、こんな場所へ来ることもなかったろう。冷え切ったはずの心が、ほんの少し痛む。だが、もう決めたのだ。この娘を女王にすると。
「……おじい様が、心配で……」
小さな声でキリエが訴える。
「……お願いです。おじい様の側にいさせて下さい。あのまま、お別れになるなんてことになれば、私……」
どんどん小さくなっていく声を最後まで聞くと、やおらジュビリーはキリエの手を取ると階段を上がり始めた。
「は、伯爵様?」
その言葉にジュビリーが立ち止まり、鋭い目つきで振り返る。
「これから女王になる者が臣下を敬称で呼んでどうする。おまえはこれから、多くの貴族から臣下の礼を受けるのだぞ」
「で、でも、どう呼べば……」
「バートランド、それが無理ならただ伯爵と呼べ」
そう言い放つジュビリーを、黙って見上げていた時。
「伯爵ッ」
階上から不意に呼びかけられる。二人が振り向くと、そこにレスターが佇んでいる。
「キリエ様もおられるのですか?」
「どうした」
「ベネディクト様が」
「!」
二人が急いで階段を上がると、数人の従者が廊下を慌しく行き交っている。
「おじい様はッ?」
ジュビリーが黙ってキリエの手を引いて急ぎ足で部屋へ向かい、静かに扉を開ける。扉が開く音で、中にいた医師が振り返る。そして、キリエの顔を見ると険しい表情で頭を振る。
「ベネディクトは――」
「…………」
医師はジュビリーの問いかけにも答えようとしない。キリエが走って寝台へ近づくと、ベネディクトは喘ぎながら必死で呼吸を繰り返していた。
「おじい様ッ」
ベネディクトの瞼がぴくりと痙攣する。
「おじい様、キリエです。おじい様!」
瞼が瞬きすると、濁った目がゆっくりキリエの顔を見つめる。
「…………」
唇が、キリエの名を呼ぼうとかすかに動く。キリエは跪き、祖父の口元に耳を近づけた。
「……キリエ……」
「おじい様!」
「こ、幸運を……」
死に臨んでも孫の幸せを願うベネディクトに、キリエの目から涙が溢れる。
これまで、修道女として教会で死者と向き合う日々だった。しかし今、初めて血の繋がる者と出会い、その臨終に立会っている。家族が死ぬということは、こんなにも寂しく、心細く、悲しいものなのか。修道女でありながら、自分が今まで人の悲しみの半分も理解していなかったことを初めて知った。キリエがベネディクトの手を握ると、彼はなおも唇を開いた。
「……頼む……」
「何? おじい様」
キリエはさらに耳を近づける。ベネディクトは力を振り絞って言葉を発した。
「……彼を……、救ってくれ……」
キリエは両目を見開いた。そして、祖父の顔をまじまじと見つめる。その目には苦痛だけでなく、深い悲しみが見てとれた。
「……救う……?」
ベネディクトはキリエの手をぐっと握りしめ、耳元で必死に囁いた。
「そうだ……、バートランドを……、ジュビリーを、救ってやってくれ……」
ジュビリーを救ってほしい。死に瀕した状態で、何故そんな願いを? キリエは混乱した。
「おじい様、どういうこと? おじい様……!」
「ベネディクト様……!」
背後にやってきたレスターに目を向け、ベネディクトは苦しげに囁く。
「……レスター……、後を……頼むぞ……」
「……!」
すると、突然ベネディクトが喘ぎ始めた。
「いかん」
医師がキリエを押しのける。
「おじい様!」
「離れて! レディ・キリエ」
ベネディクトは呻き声を上げ、胸を掻き毟る。
「おじい様!」
「ベネディクト」
キリエの絶叫が空しく響く。ベネディクトはがくがくと痙攣を繰り返すと、やがてがくりと頭を垂れた。室内に、沈黙が広がる。
「…………」
医師が首に手を押し当てると、キリエを振り返る。
「……おじい様?」
「……お亡くなりに」
キリエは両手で口元を覆うとその場に座り込んだ。レスターが思わず片手で顔を覆い、口惜しげに呻き声を漏らす。
「ベネディクト様……!」
嗚咽が響く中、ジュビリーは無言でベネディクトの遺体に歩み寄った。しばらく黙ったまま見下ろすと、痩せたその顔に手を這わせ、目を閉じる。何かを、決意するかのように。
翌朝。あのまま眠らずに夜を明かし、一晩中祈りを捧げていたキリエは、ぼんやりとした表情で椅子に腰掛けていた。やがて外から聞こえてくるざわめきではっと我に返る。窓からそっと外を窺うと、城門から軍勢が整然と行進してくる。
「……ジョン様」
武装したジョンが軍馬に跨り、軍を率いている。
「キリエ様」
不意に名を呼ばれ、飛び上がって振り返る。そこには昨夜の侍女がひっそりと佇んでいた。
「ご出発の準備を。お着替えを用意してございます。衣装部屋へ」
「……はい」
言われるままに部屋を連れ出される。城内は慌しかった。一方ではキリエの出発を準備し、一方ではベネディクトの葬儀の準備に追われている。この異様な雰囲気に、キリエの胸は重く締め付けられた。数人の侍女が待機していた衣装部屋で、キリエは今まで見たこともない豪奢な衣装を示され、唖然とした。
「わ、私、こんな贅沢な衣装は……」
「今から王都で王位の宣言を行うのですよ。粗末な衣装でプレセア宮殿へ入城すれば、貴族たちから嘲笑されます」
乾いた声でそう諭され、キリエは否応なしに着替えさせられた。
「プレセア宮殿にはまだ王妃、いえ、王太后がいらっしゃいますし」
小さく呟く侍女の言葉に、キリエは眉をひそめた。
「……ベル王太后?」
「ええ」
ベル・フォン・ユヴェーレン。崩御したエドガー王の妃だ。王と王妃の諍いが絶えなかったという噂は、このロンディニウムにも伝わっていた。教会でも、ボルダーが暗にエドガーとベルのことを引き合いに出し、家庭を円満にすることが幸福につながると説教していたことがあったほどだ。
エドガーとベルの間には嫡男エドワードがいたが、狩りの最中に落馬したことが原因で十歳という幼さで亡くなっている。そのこともあって、次々と庶子を生む愛妾たちに対し、王妃は露骨に敵意を見せていたというから、キリエに対しても好意的なはずがないだろう。キリエは憂鬱そうに溜め息をついた。と、その時、彼女は眉をひそめた。
(王太子……)
父と妃の息子ということは、亡くなったエドワード王太子は自分の異母兄だ。キリエは不吉な胸騒ぎを感じた。今まで知らされていなかった事実が次々と姿を現してくる。自分は、一体誰なのだ? これから、どうなるのだ?
不安そうなキリエに構わず、侍女たちは手際よく衣装を着付けてゆく。金襴で縁取られた目にも鮮やかな青いワンピース。幾重にも重ねられた上質なペチコート。今まで触れたこともなかった金銀の装身具。長い栗毛は綺麗に結い上げられた。仕上げに化粧を施すと告げられたが、キリエはそれだけは頑なに拒んだ。長年教会で育ってきたキリエにとって、化粧はどうしても背徳行為にしか思えなかったのだ。装身具すら、彼女は用意されたものの半分ほどしか身につけようとはしなかった。
「失礼」
衣裳部屋の扉の向こうから、レスターが声をかける。
「お着替えは?」
「そろそろ終わります」
「お食事をご用意しております。出発が迫っております故……」
レスターの言葉にキリエは俯いた。
「……食欲がないわ」
「少しでもお召し上がり下さいませ。イングレスまで三時間はかかります」
侍女がぴしゃりとたしなめる。ようやく着替えが終わり、危なっかしい足取りで部屋から出てきたキリエに、レスターが満足げに頷く。が、その顔は一晩で老け込んだようにも見える。
「おお。昨日の修道女姿からは想像もつかないお姿ですな。結構結構」
慣れない衣装にてこずりながら朝食を済ませた後、キリエは城の礼拝堂へ向かった。礼拝堂という名ではあったが、その豪華さは目を見張るものがあった。手入れの行き届き具合を見る限り、ベネディクトは生前から信仰を大事にしてきたらしい。礼拝堂に安置された棺の中で、盛装されたベネディクトが静かに眠りについている。棺の側で跪くと、キリエは両手を合わせた。
「……あなたの御霊が天使に導かれ、雲間に居ます神の下へと、迷うことなく向かわれることを祈ります……」
淀みなく呟く祈りの言葉が、やがて途切れ途切れになる。
「……あなたが残した……、多くの善行が……、神に認められ……、天で祝福されますよう……」
キリエの閉じた眦から涙が溢れ出す。今まで何度も唱えてきた死者への哀悼の祈り。まさか、血の繋がった者のために唱える日が来ようとは思ってもいなかった。それでも祈りの文句を最後まで詠唱すると、キリエは静かに立ち上がった。ベネディクトの頬にそっと唇を押し当てるとその死に顔を見つめる。
「……おじい様……」
沈黙のベネディクトに、キリエは心の中で呼びかけた。
(伯爵を救うとは、一体どういうことなのですか。彼を、何から救えば良いのですか)
答えを得られないまま、キリエはベネディクトに別れを告げた。侍女たちに見送られて礼拝堂を後にすると、レスターが一人佇んでいる。
「キリエ様。……こちらへ」
言葉少なげに呟くとキリエを導く。礼拝堂を出て城の裏手へ回ると、夏の花で彩られた庭園が広がっている。教会の薬草園を思い出したキリエは、思わず胸が詰まった。庭園の色鮮やかな花々は、二人を黙って迎え入れた。
「……キリエ様」
低い声で呼びかけると、レスターはある一角を指し示した。
「こちらが、レディ・ケイナの墓標でございます」
キリエは息を呑んで立ち尽くした。石のように固まって動かないキリエに、レスターは寂しげな微笑を浮かべるとそっと肩に手を添える。
「どうぞご挨拶を。ベネディクト様同様、ケイナ様もキリエ様にお会いしたかったはずです」
キリエは覚束ない足取りでゆっくりと歩み寄った。草むらに隠れるように、母の墓標はひっそりとそこに横たわっていた。冷たく硬い石に、「我が慈愛は祈りと共に」と刻まれている。キリエは静かに跪くと、恐る恐る手を伸ばし、墓標に触れる。
「……お母様……」
口の中でそっと呟いてみる。昨日見かけた母の肖像画が脳裏に蘇ると同時に、キリエの目から涙が溢れ出た。
何故、こんなことになったのだろう……。何故、自分には母の記憶がないのか。何故、自分は母と引き離され、身分を隠され、真実から遠ざけられていたのか。それが、自分の身を守るためといわれても理解できなかった。十四年前に、何があったのだ。
キリエは涙を拭った。墓標の上の部分に、蝶の紋章が刻まれている。指輪と同じものだ。キリエは右の手のひらに口づけると、そっと墓標に添えた。
「行ってまいります。……母上」
そして、両手を合わせると静かに祈りを捧げる。と、草を踏む靴音が耳に入り、はっと後ろを振り返る。そこには、正装したジュビリーが背後に佇んでいた。相変わらず冷たい表情だが、その目にはどこか同情の色が感じられる。
「……良いか」
「……はい」
キリエは墓標をもう一度振り返ってから立ち上がった。
「キリエ様」
背後からレスターに呼びかけられ、立ち止まる。
「私はここでグローリアとクレドの守備に務めます。ご成功をお祈りしております」
固い表情で頷くと、キリエはジュビリーに促されるまま庭園を後にした。