オイールに到着してから数日が経った頃。キリエはバラを私室に招くようモーティマーに命じた。
「……アンジェ公にお伝えに?」
どこか慎重な口ぶりで尋ねてくるモーティマーに、キリエは黙って頷いた。秘書官は表情を引き締め、低く囁く。
「すぐにはご納得いただけないかもしれませぬが……」
「そうね」
キリエも心なしか引き攣った顔付きで息をつく。
「……後でギヨを呼んできて」
「はっ」
モーティマーが一礼すると私室の外が騒がしくなり、やがて扉が叩かれる。
「どうぞ」
扉を開いたのは侍従次長のカンベール子爵。キリエが「王妃」だった頃に仕えていた子爵はすでに引退し、今では息子が職務を引き継いでいる。
「女帝陛下、ギョーム王陛下が」
カンベールが脇へ退くと、「友人」たちを引き連れたギヨが。
「養母上の寝室にお邪魔してよろしいでしょうか。フランセスに絵を見せたいのです」
キリエが目を丸くして屈み込むと、フランセスは期待に満ちた瞳で見つめ返してくる。今日の彼女は兄ヘンリーではなく、ローズ・アンの腰にしがみついている。本当はヘンリーもギルフォードも大好きなフランセスは、秘書官の娘も姉のように慕っていた。ローズ・アンも控えめに微笑みながらフランセスの髪を撫でている。静かな両親に育てられたせいか、おとなしくて穏やかな彼女は子どもたちの姉のような存在だった。キリエはにっこりと微笑んだ。
「いいわ。特別に許してあげる」
子どもたちの表情が嬉しそうにほころぶ。
「粗相のないようにな」
心配そうに声をかけてくる父に、娘は心得たように頷く。
「わかっております、父上」
「行きましょう、ギヨ様!」
フランセスに急かされ、ギヨは養母に微笑みかけてから友人たちを連れてゆく。その後ろ姿を、キリエは不安げな瞳で見送った。
それから程なくして、私室にバラがやってくる。
「お呼びでございましょうか」
いつもと変わらず、優雅な立ち居振る舞いで現れた宰相に、キリエは微笑を浮かべて出迎える。が、その顔色がやや青ざめていることに相手は気付いた。
「毎日ギヨのためにありがとう。どうかしら、勉強の進み具合は」
「はっ。土台がしっかりなさっておいでですから、何の問題もございませぬ。何しろ、最高のお手本をお側でご覧になられているわけですから。……ただ」
バラはちょっといたずらっぽく笑うと控え目に肩をすくめた。
「ご納得いただけないことには繰り返し説明をお求めになられます。なかなか鋭いご指摘を頂戴いたしますよ」
冗談めかした言い方にキリエもくすりと笑う。バラも静かに笑いを漏らし、やがてどこか寂しげに溜息をつく。
「あのひたむきさ、誠実さ、情熱。先王陛下を思い出します」
その言葉に、キリエも静かに頷く。
「……本当に、よく似てきたわ」
「ギョーム王陛下はいずれ、神聖ヴァイス・クロイツ帝国の皇帝になられるお方。僭越ながら、皇帝に相応しい王に育て上げることが、自分の最後の『務め』だと思っております」
キリエは静かに目を見開いた。そこには、かつての野心的で狡猾な宰相の姿はなかった。主君の忘れ形見を慈しみ、導いていきたいと願うひとりの男。キリエは思わず席を立つとバラを見上げた。
「アンジェ公、最後までギョームの側にいてくれてありがとう。これからはギヨを……、ギヨをお願い」
そう言って深々と頭を垂れる女帝に、バラは動揺して身を乗り出した。
「王妃――!」
その呼びかけにキリエははっと顔を上げた。バラも慌てて口をつぐみ、恐縮して黙り込む。
「……何年ぶりかしら。あなたに王妃と呼ばれるのは」
「……お許し下さい」
「いいえ、いいのよ」
キリエは寂しそうに微笑んだ。バラはもう一度溜息を吐き出した。
「先王陛下を思い出せば、いつでもすぐにあの頃へ帰れます。……女帝陛下、あなたはあの頃と本当に変わっていらっしゃらない」
「アンジェ公……!」
俯いたキリエが震える声で遮る。かすかに肩を揺らす女帝にバラは眉をひそめた。
「陛下、一体どうなされました」
呼びかけにも応えず、キリエは黙って項垂れたままだ。バラはそっと身を乗り出した。
「先程からお顔色が……。何があったのでございますか」
目を落とすと握り締めた手が震えている。バラは辛抱強く女帝を見守った。
その頃、ギヨは友人たちを連れて後宮に向かっていた。
「今から連れていくのは、〈王と王妃の寝室〉だ。父上と養母上が使っていた部屋で、今は養母上がガリアに滞在する時に使っている」
ガリアの王都、ビジュー宮殿を初めて訪れるフランセスは興味津々に後宮の通路を見渡した。
「とっても豪華な廊下……!」
「ああ。アングルのプレセア宮殿よりも華美な装飾だからな。私も養母上もプレセア宮殿の方が落ち着くのだ」
「私は好きです! まるで私もお姫様になったみたい!」
嬉しそうに語るフランセスに皆が笑う。
「お姫様になるなら、もうちょっとおしとやかにならないとな」
ギルフォードに横槍を入れられるが、フランセスはローズ・アンの腕に纏わり付きながら言い返す。
「なれるもん! お姫様になれるもん!」
剥きになってまくし立てるフランセスの頭を軽く撫でたギヨが扉を指差す。
「ほら、着いたぞ」
途端にフランセスはローズ・アンから離れると駆け出す。
「お開けいたします、プリンセス」
同行していたカンベール子爵がそう言うと、フランセスは顔をくしゃくしゃにして喜びを表した。その様子にギヨたちも思わず微笑む。カンベールが扉を押し開く。と、まず彼らの目に飛び込んできたのは美しい装飾がなされた天蓋付きの寝台だった。
「わぁ!」
フランセスが顔を輝かせて寝室へ駆け込む。が、まず足許の毛足の長い絨毯に驚嘆の声を上げる。次いで、寝台で艶やかな輝きを放つ典雅な夜具に目を奪われる。
「すごい! 綺麗!」
そう叫んで寝台に飛び込むが、柔らかな夜具がふんわりと受け止める。
「柔らかい!」
「いけませんよ、フランセス様」
ローズ・アンにたしなめられ、起き上がると両手で夜具を撫で回す。
「ふわふわ」
その妹の隣で、ヘンリーが天蓋から吊されたカーテンをまとめた組み紐をするりと解く。深いワイン色のカーテンがさっと広がり、フランセスに覆いかぶさる。彼女は大喜びだが、真面目なローズ・アンは眉をひそめて声を上げる。
「駄目ですよ、ヘンリー様……」
「フランセス、こっちだ」
ギヨの声にフランセスが顔を上げる。寝台の向こう側でギヨが手招いている。そこには、壁に掛けられた絵が。
「あ……!」
ギヨの側に駆け寄ると絵を見上げる。ギルフォードやヘンリー、ローズ・アンもやってくる。
塔の窓から身を乗り出した青衣の少女。その眼下には、跪いた旅装の少年。少女はどこか緊張した面持ちで両手を胸で合わせ、少年の方は驚きを持って少女を見上げている。フランセスはギヨを振り仰いだ。そしてもう一度絵を見上げる。その動作を何度か繰り返し、ギヨはちょっと寂しそうに笑う。
「似ているか?」
「ギヨ様の……、お父様ですよね?」
フランセスはつぶらな目を見開いて絵の中の若獅子王を見つめた。
「そっくりですね……。プレセア宮殿にも絵がありますけど、やっぱりよく似ていらっしゃいます」
「父上を知っている者は皆そう言う。絵を見る限り、確かに似ているのだろうな」
他の子どもたちもどこか神妙な表情で絵に見入っている。
「これは、父上と養母上がクレド城で初めて出会った時の様子だそうだ。養母上はちょうど今の私と同じ十四歳で、父上は十九歳になったばかりの頃だ」
フランセスが明るい笑顔で幼い女帝を指差す。
「何だか不思議。陛下がまだ小さくて」
「十七年前だからな」
「しかし、ギヨ様と先王陛下は本当によく似ておいでなのですね」
ギルフォードが感心したように呟く。
「ローラン侯もよく似ていらっしゃるそうですが」
「あぁ、アンリ殿にも似ていると言われるな」
ギョームのいとこ、レイムス公シャルルの息子アンリは今では二四歳。ギョームが二一歳で崩御したため、彼に先王の面影を見出だす者も多い。
「だけど」
フランセスが無邪気に声を上げる。
「ギヨ様がこんなにお父様に似ていらっしゃるなら、陛下は寂しくないですね。あ、でも……」
急に顔をしかめて黙り込んだフランセスにギヨが首を傾げる。
「ギヨ様がずっとガリアにいらっしゃると……、陛下は寂しくなられるでしょうね……」
皆は眉をひそめた。ギヨがガリアを拠点とすることを決意した背景など、まだ幼いフランセスにわかるはずもない。だがそれを責めることもできず、ギルフォードは落ち着かない様子でギヨを見つめる。
「そうだな」
皆の不安をよそに、ギヨはにっこりと微笑んだ。そして腰を屈めるとフランセスの髪を両手でくしゃくしゃと掻き撫でる。
「だから、養母上がアングルにいらっしゃる間、寂しくないように側にいてくれるな? フランセス」
フランセスの顔がぱっと明るくなる。
「はい!」
「頼むぞ」
もう一度頭を撫でられ、フランセスは嬉しそうに笑い声を上げる。
と、その時。不意に「きゃっ!」と悲鳴が上がる。
「ローズ?」
皆が驚いて振り返ると、外れかけた胸当てを両手で押さえたローズ・アンが顔を真っ赤にしている。背中で結んでいるリボンをヘンリーに解かれたのだ。
「もう! ヘンリーったら!」
涙目になって叫ぶローズ・アン。おどけた表情をしてみせる弟にギルフォードがかっとなる。
「ヘンリー! おまえはまた悪ふざけを!」
そう言って追いかけてくる兄に笑いながら逃げるヘンリー。だが後ろを向いて走っていると唐突にどんと何かにぶつかる。慌てて振り返った彼の顔から血の気が失せる。
「……
そこにいたのは、怒りに顔を引き攣らせた養父。
「何度言えばわかる!」
ジュビリーはそう怒鳴りつけると握り拳をヘンリーの脳天に落とした。ごつん、という鈍い音に皆が痛そうに身を竦める。ヘンリーは呻き声を上げてしゃがみ込んだ。
「兄上……!」
フランセスが慌てて大好きな兄の許へ飛んでゆく。ローズ・アンはおろおろと立ち尽くしたままだ。
「フランセスは大事にできて、何故ローズ・アンには優しくできんのだ。馬鹿者が!」
「公爵、それぐらいに……」
後ろに控えたローズの父親であるモーティマーが苦笑いしながら仲裁に入る。
「大体、ローズ・アンはおまえよりも年長ではないか。謝れ」
ヘンリーはよろよろと立ち上がると、気まずそうにローズ・アンをちらりと見遣る。
「……ごめんなさい」
ローズ・アンが恐々と頷く。と、再び「ひゃっ」と悲鳴を上げる。解けたリボンをギヨが結び始めたのだ。
「ギ、ギヨ様……!」
「じっとしていろ」
ローズ・アンは顔を真っ赤にして口をつぐんだ。その様子に、痛みで目に涙を滲ませたヘンリーが思わず口を尖らせた時。ジュビリーが息子の首根っこを掴む。
「いたたッ!」
「すまない、モーティマー。これがまたいらぬことをした」
「大丈夫ですよ、公爵」
憤然と鼻息を吐くアングルの宰相に、ギヨが顔をしかめる。
「それぐらいでいいだろう、バートランド。許してやれ」
ジュビリーが手を離すと一礼する。かすかに不機嫌さが漂うギヨの言葉尻に、フランセスが首を傾げる。
「ギヨ様はどうして伯父上が嫌いなのですか?」
その言葉に皆が凍り付いたように息を呑む。ギルフォードは咄嗟に後ろから妹の口を両手で覆うと引き寄せた。そして、恐る恐る幼い王と伯父を見比べる。ジュビリーは目を眇め、険しい顔付きでギヨを凝視した。少し固い表情ながら、特に変化はない。やがて、ギヨはフランセスに笑いかけた。
「嫌ってなどいないぞ」
そう言ってフランセスの頭をぽんぽんと優しく叩く。
「ただ、私より剣が強いのが気に入らないだけだ」
ギルフォードがそっと手を離す。フランセスは嬉しそうににっこりと笑った。
「なぁんだ、良かった」
ジュビリーは静かに頭を下げた。ギルフォードが人知れずほっと息をつく。
「――失礼します、陛下」
モーティマーが控え目に呼びかける。
「女帝陛下がお呼びでございます」
「わかった」
ギヨは小さく息をついた。
モーティマーと共に後宮から養母の私室へ向かう、その道すがら。通路の先に、見覚えのある姿が目に入る。しばらく歩みを進めると、それは憔悴した様子のガリアの宰相だった。
「……バラ?」
「――陛下」
彼は、大きく目を見開き、哀しげに眉をひそめて見つめてきた。困惑と動揺が入り混じった複雑な表情にギヨは俄かに不安になる。
「どうした」
「――いえ、何でもございません。女帝陛下がお待ちでございますよ」
「……ああ」
深々と頭を垂れる宰相に見送られ、ギヨは私室へ向かった。
「養母上、失礼します」
扉が開かれると、キリエは細い背を向け、窓から中庭を見下ろしていた。その後ろ姿がいつになく心細げに見え、ギヨはますます胸騒ぎに襲われた。
「……ギヨ」
それでも、養母は穏やかな微笑で振り返った。
「養母上……。お顔が真っ白ですよ。ご気分が優れないのでは……」
「大丈夫よ」
どこか無理に笑顔を作ると、キリエはゆっくりと歩み寄った。
「……半年後ね、親政宣言は」
少し首を傾げ、じっと探るような眼差しで見つめる。
「どう? まだ、不安かしら」
ギヨは表情をゆるめると母を見上げた。
「不安がないと言えば嘘になります。でも、今から不安をなくしていけると思っています。宣言までに、しっかりと学びます」
その答えにキリエは満足そうに頷く。
「良かった……。それを聞いて安心したわ。これで、心置きなくアングルへ帰れるわ」
「養母上?」
少し慌てた様子の息子にキリエが顔を振る。
「大丈夫よ、親政宣言を終えるまではガリアにいるわ」
ほっと息をつくと、ギヨは改めて養母を見つめる。いつもは朗らかで優しい養母の表情にどこか陰りを感じる。何だろう。彼は漠然とした不安を感じ始めた。
「……あなたが今度アングルに帰ってくるのはいつになるかしらね」
「有事があればすぐにでも帰国します。……そのようなことがないことを祈りますが」
「そうね」
「……でも」
ギヨが少し照れくさそうに笑う。
「本当は、今でもガリアは苦手です。六歳までアングルで育ったのですから」
そう言われると、キリエはかすかに眉をひそめた。
「……ガリアは嫌い?」
「嫌いではありませんよ。生まれたのはこの国ですから。ただ、アングルがもっと好きなだけです」
そこまで語って、ギヨはとうとう我慢できなくなって身を乗り出した。
「……養母上、何かお話があるのではありませんか?」
ぎくり、としたのが傍目からでもわかった。キリエは顔を強張らせて凝視してくる。
「先程見かけたバラも様子がおかしかった。……大事なお話があるのでしょう?」
養母は明らかに狼狽し始めた。小さく震える手で胸許を押さえ、今や怯えに近い表情だ。自分が養母を追い詰めているのか? ギヨは不安げに養母の言葉を待った。キリエは軽く瞳を閉じ、呼吸を繰り返す。
「……ごめんなさいね」
「養母上」
長い溜息をつき、キリエは顔を上げた。何かを決意したような面立ち。ギヨも居住まいを正す。
「……親政を宣言したら……」
「はい」
思わず身構え、ぎゅっと手を握り締める。真っ直ぐに向けられる眼差しを受け止めると、キリエは静かに口を開いた。
「……ギヨ。あなたに、神聖ヴァイス・クロイツ帝国の帝位と、アングル王国の王位を譲ろうと思うの」
瞬間、眉をひそめる。養母はそれきり口をつぐんだ。胸騒ぎが強まる。ギヨは狼狽えて視線を彷徨わせた。
「……え、養母上……? い、今、何と……」
「皇帝になるのよ、あなたが」
「待って下さい!」
たまらず叫ぶ。そして、思わず大きな声を出したことを恥じるように俯く。
「……突然でごめんなさい」
養母の低い声が聞こえてくる。
「でも、大陸に留まると言ってくれた今だから、あなたに伝えようと思ったの。あなたなら、皇帝になれるわ」
「養母上……!」
まだ動揺が治まらないギヨが言葉を遮る。
「わ、私が、私が、皇帝……? 私は、まだ……!」
「子どもだと言うの?」
思わぬ強い口調にぎくりとして顔を上げる。キリエは強張った表情ながら、諭すように囁いた。
「では何故、ガリア王として親政すると言ってくれたの?」
「それは……」
「……私は十五歳で女王になったわ」
キリエは顔を伏せると震えながら息をつく。
「十二年間教会に閉じこもっていた私が、どうして女王として政治を執ることができたと思う? 私を守り、支えてくれる人々が周りにいたからよ。あなたにもいるわ」
「……養母上」
「それに、私と違ってあなたは生まれた時から皇帝になるために育てられてきた」
そこで口をつぐみ、しばし沈黙してから再び言葉を継ぐ。
「……生まれながらに、重い運命を背負わせてしまったけれど……」
ギヨは、落ち着きを取り戻すために大きく息を吐き出した。
「……養母上、教えて下さい」
固い声色。キリエは恐る恐る身を乗り出す。
「……何故、帝位だけでなく、アングルの王位も譲位されるのですか」
思ったよりも冷静な指摘。キリエは息を呑んだ。ギヨは鋭い眼差しで見据えてくる。ギョームと同じ、透き通る碧眼で。
「……ギヨ」
「大陸に留まるから、という理由ならば私が帝位を継承するのは理解できます。ですが、アングルの王位まで私に譲位する理由がわかりません。……譲位の本当の理由は何ですか」
キリエは呆然と養い子を見つめた。ここ数か月、ギヨの成長ぶりには驚かされてきたが、これほど成長していたとは。ギヨはどこか必死な表情で歩み寄る。
「養母上は、女帝からも女王からも解放されたいとお思いなのでしょう。そうまでして何をなさりたいのですか? 教えて下さい……!」
キリエは狼狽えて顔を背けた。震える両手を祈るように絡み合わせ、黙り込む。緊迫感が満ちてゆく室内。まるで外界から切り離されたかのような空間に二人きり。ギヨは辛抱強く養母の横顔を見守った。
「……ギヨ」
観念したように目を閉じ、名を囁く。それでもしばらく沈黙を守っていたキリエは、ようやく顔を上げた。
「お願いが、あるの」
震える囁き声。ギヨはその先を促すように頷く。キリエは背筋を伸ばし、真正面からギヨを見据えた。彼が今まで見たことがないほど怯えと恐れに満ちた瞳。それでも、養母は静かに口を開いた。
「……再婚したいの」
その言葉は、ギヨの胸奥深くまで突き刺さった。再婚。顔を歪め、ただ無言で見上げてくる息子を見守るキリエ。やがてその目を眇め、彼は絞り出すように囁いた。
「……バートランドですか」
その名に、キリエの顔色がますます青くなる。ごくりと唾を呑みこんでから、彼女は頷いた。途端に、ギヨは踵を返すと背を向ける。
「ギヨ!」
悲鳴のような呼びかけ。
「お願い、話を聞いて!」
「養母上は!」
息子の叫びに言葉を呑み込む。震える肩。刺々しく拒絶する背中。キリエは黙って見守ることしかできなかった。ギヨは荒々しく息を吐き出しながら振り返った。その怒りに満ちた瞳にキリエは思わず口を覆う。
「養母上は……、父上を忘れると仰せですか!」
「そんなわけないでしょう!」
思わず叫び返す。今度はギヨが言葉を失って黙り込む。
「わ、忘れるわけが――」
そこまで口にしてキリエの目から涙がこぼれ出す。
「忘れるわけないわ……! ギョームのことを忘れた日なんか、一日だってない……!」
涙は後から後からこぼれ続けた。ギヨは激しい後悔を胸に黙り込んだ。キリエは肩を震わせながら口許を両手で覆う。
「い、今でも、夢にみるのよ。あの日……、ギョームを、戦場に送り出した日のことを……」
嗚咽をこらえつつ、キリエは身を乗り出して叫んだ。
「あなたを生んでくれた、エレソナを喪った日のことも……!」
〈生母〉の名に、ギヨは思わず目を閉じた。涙を拭うと、キリエは覚束ない足取りでギヨに歩み寄った。
「……苦しい時に思い出すのは、いつもギョームのことよ。女帝として、母として、これまでやってこれたのは私の中にいるギョームのおかげだわ。でも、現実に今、生きている私を支えてくれているのは、ジュビリーなのよ」
必死に語りかけてくる養母。
(ギヨ様は、どうして伯父上が嫌いなのですか?)
フランセスの言葉が胸に響く。そうだ。嫌ってなどいない。気に入らないだけだ……! ギヨは、奥歯を噛みしめた。
ごく幼いうちは、ギヨはむしろジュビリーになついていた。養母が頼りにしている宰相に心を許し、まるで父のように慕っていたのだ。彼から帝王学を学び、剣の手解きも受けた。養母はキリエ。養父はジュビリー。そして、レスターを祖父のように感じながら、穏やかで幸福な幼年時代を過ごしたのだ。
だが、それは六歳になった頃のこと。物心がついたギヨの耳に、詮索好きな口さがない人々が囁き合う噂が入ってくるようになった。それはアングルの宮廷だけでなく、ガリアの宮廷でも同じだった。
〈若く美しい女帝陛下には大陸各国から縁談が舞い込み続けるのに、どのようなお相手だろうと首を縦に振ろうとはなさらぬ。いつでも隣に侍っている黒衣の宰相の存在故か。思えば、先王陛下も宰相には胡乱な眼差しを向けていらっしゃった……〉
そのような言葉を毎日のように聞かされては、ギヨも穏やかではいられないのも当然だった。また、その噂を裏付けるどうしようもない事実がある。女帝は、自分を生んではいないのだ。自分を生んだのは、女帝の異母姉だ。
それでも、ギヨはすぐに養母とジュビリーに対して疑いを抱いたわけではなかった。これまで自分を慈しみ、育んでくれた存在を信じたいという思いと、記憶にない実父への思慕に心が引き裂かれたのだ。折しもギヨは幼子から多感な少年へと変化を遂げる時期だった。彼は、何も告げぬまま、少しずつジュビリーから離れていった。そして、その心を察してか、ギヨの変化にジュビリーも何も語ることがなかった。
「……ギヨ」
涙が混じる囁きに、胸が締め付けられる。
「ギョームは今でも私の心の支えだわ。でも、生きている人は、生きている人を支えるべきだと思うの。……私はこれまでずっと支えられてきた。これからは、私が支えていきたいの」
苦しげに顔を歪めたまま、わずかに顔を上げる。涙で汚れた顔のまま、じっと見つめてくる養母。こんなに感情を露わにする姿は初めて目にする。
「彼も、もう五一歳よ。これまで、全てを犠牲にして私を守ってきてくれた彼のために、残りの人生を共に歩んでいきたい……。それだけなの……!」
人生を共に歩む。ささやかな願いにして、叶え難い願いであるということは、母が一番わかっているのだろう。キリエは苦しそうに目を閉じると、か細い声で続けた。
「でも……、今の立場ではそれができない。これからも、女帝と宰相という立場で支え合うことはできるわ。でも、それは……、皆の目を欺くことだと思うの」
ああ、母はなんて生真面目なのだろう。そんなことを考えるまでもなく、立場を利用していつまでも寄り添っていれば良いのに。キリエは大きく息を吐き出し、呼吸を整えてから再び口を開いた。
「……それに、このままでは外国から縁談が舞い込み続けるわ。特に、ライン公は何度も足を運んで下さって……。心苦しいの」
ここ数年、キリエへの縁談は数を増しているが、中でも熱心に求婚を続けているのがナッサウの王弟ライン公だった。数年前に妃を病で亡くしたライン公は、周囲の勧めもあってキリエとの再婚を視野に入れ、アングルを訪れた。二人はキリエの女王戴冠式以来の再会であったが、美しく成長した彼女に惹かれたライン公は正式に求婚。アングルだけでなく、ガリアにまで足繁く通っていたのだ。他国と同様、求婚を断り続けていたキリエだったが、ギヨもまた、ライン公は養母の再婚相手としては歓迎しなかった。キリエよりも十歳年上のライン公に、ジュビリーと似た雰囲気を感じ取ったのだ。それでも、ライン公はまだ諦めずに説得を試みている。
「ライン公に限らず、すべての縁談をこれからも断り続けるのは難しいわ。帝国に利のある縁戚を何故結ばないのか、いつか誰かが問い詰めようとする」
厳しい眼差しをゆるめることなく、ギヨは養母を見つめ続けている。
「私が、本当に側にいてほしい人はライン公でも他の王族でもない。相手がジュビリーでなければ、再婚はしたくないわ」
息子の視線を痛いほど感じながらも、キリエははっきりと言い切った。が、それでも苦しげに眼を閉じ、小さな声で続ける。
「……彼が、一人の男性として私の一番近くにいてくれることを、皆に認めてほしい……。私のわがままだということは、よくわかっているわ。でも……」
「養母上」
低い声で遮られる。キリエは不安でいっぱいの表情で唇を閉ざした。
「……お聞きしたいことが、いくつかあります」
「……何?」
半ば予想していたのか、キリエは落ち着いた口調で囁く。ギヨは息をついてから、養母を見上げた。
「父上とご結婚する前から、バートランドを……?」
キリエは静かに頷いた。
「私の、初恋だったわ」
「それは、いつ頃のお話ですか」
鋭い声色に、青ざめた顔をわずかに背ける。
「……女王に、戴冠した頃よ」
「何故」
思わず声を高める。ギヨは我知らず前へ一歩踏み込んだ。
「何故、父上とご結婚なさったのです。何故……!」
「ギヨ……」
「父上とご結婚されてからも、ずっとバートランドを思っていたのですか? だから……!」
戸惑いの表情で震えあがる養母に向かって、ギヨはなおも叫ぶ。
「だから養母上は、私を生んでくれなかったのですか?」
耐え切れず、キリエは両手で顔を覆い隠した。いつか、ギヨに問い質される日がくることを覚悟していた。だが同時に、伝えたいことがあった。
「……ギヨ」
くぐもった囁き。ギヨは、胸の痛みを感じながら養母の言葉を待った。
「……聞いて。あの頃の私は、本当に子どもで、わがままで、ギョームを受け入れられなかった」
震えが止まらない手を下ろし、キリエは真正面からギヨを見据えた。これまでの怯えの表情は失せ、すべてを語ろうという意思が垣間見える。ギヨは、養母の眼差しを受け止めた。
「でも、周りは待ってくれなかった。戦争も起きたわ。私は、皆の期待に応えることができず、姉に……、エレソナにその危険な役目を押し付けてしまった」
そこで言葉を止め、大きく呼吸を繰り返す。
「……エレソナには、感謝しているわ。彼女がいなければ、私はあなたと出会えなかったのだから。でも、後悔もしているわ。もっと早くギョームを受け入れていれば……。もっと私が、大人であれば……!」
いつしか、ギヨの瞳にも涙が光っている。キリエは恐る恐る手を上げると、ゆっくりとその眦を撫でた。ギヨは、こらえきれず瞳を閉じた。
「……あなたは、私がお腹を痛めて生んだ子ではないけれど……。あなたと泣いて、あなたと笑って共に過ごした時間は、私だけのもの。あなたは、私を母親にしてくれた」
「……養母上」
その言葉と共に、涙が一筋、零れ落ちる。
「ギヨ」
腰を屈め、愛し子の頬を両手で包み込む。
「あの戦争が残したのは、怒りと哀しみだけだった。だから、あなたの成長は希望になった。私だけではないわ。皆の希望なのよ」
そこで顔を伏せ、キリエは長い溜息をついた。しばしの沈黙の後、キリエは再びギヨの顔を覗き込んだ。
「私が、ギョームを喪ったあの戦争でどんなに絶望し、どうやって立ち直ったか、聞いてくれる?」
ギヨは黙り込んだまま頷いた。キリエは背を伸ばすと彼の手を取った。
「いらっしゃい。その話をするのに、ふさわしい場所があるの」