ビジュー宮殿の北側に広がる王領の森を、二頭の馬が駆け抜ける。夏の陽射しが降り注ぐ森の中、迷うことなく馬を走らせる養母にギヨが呼びかける。
「どこまで行くのですか」
それに対し、キリエは「もう少し」と返す。やがて森を抜け、その先に小高い山が見えてくる。
「あの山よ」
前を見据えたまま声を上げる養母に、ギヨは黙ったまま馬の腹を蹴った。
手綱を操り、二人はゆっくり山を登っていった。ギョームが遺したたくさんの馬具は、今ではギヨが受け継いでいる。父が馬好きだったと聞かされて育ったためか、ギヨ自身も馬に関心を持ち、毎朝母と朝駆けを楽しむようになっていた。だが、この山は初めて登る。
「着いたわ」
明るい声に目を上げると、思わず言葉を失う。キリエは晴れやかな笑顔で眺望を指し示した。
「綺麗でしょう」
遠くに広がる緑の田園。温かな色合いの屋根が連なる町並み。それらを見守るようにそびえ立つ、聖オルリーン大聖堂。真夏の太陽に照らされ、目に映るすべてのものが光り輝いている。ギヨは我を忘れてその光景に見入った。
「……こんな場所があったなんて」
ギヨは思わず顔をほころばせて振り返った。
「どうして、朝駆けの時に教えてくださらなかったのですか」
その問いに、キリエは少しだけ寂しげに微笑む。
「ここはね、ギョームが教えてくれた秘密の場所なの」
「……父上が?」
キリエが静かに馬から降り、ギヨも降り立つ。二人はしばし黙ったまま眼下を眺望する。
「……ここで喧嘩もしたし、仲直りもしたわ」
小さな呟きに振り返る。
「あの頃の私は幼かったし、ギョームも若かった。それでも、彼はありったけの愛情で私を包んでくれた。それだけじゃない。王妃として、女王として、相応しい存在に育ててくれたのよ」
木々を抜けた涼風が二人を包む。葉擦れの音が優しく降り注ぐ中、キリエは満ち足りた表情で目を閉じた。瞼の裏では、いつでもあの笑顔に会えるのだ。柔らかな、陽光に溶け込むような笑顔に。
「ギョームが大好き。……今でも」
唇には優しい微笑。穏やかな表情。まるで子どものように安心しきった佇まい。ギヨは思わずその姿に見入った。だが、やがて美しい弧を描く眉がひそめられる。
「……私が大好きだったギョームを、あの戦争が奪った」
静かに目を見開き、町並みを見渡す。天を突く尖塔。あそこで、彼と結婚式を挙げたのだ。
「……大きな困難を乗り越えて、絆を深めて、ずっとあのまま、一緒にいられると思ったのに」
養母の声色が固く、低く変わってゆく。キリエは眉を寄せ、目を細めた。
「あの時の私は、ガルシアを殺すことしか考えていなかったわ」
はっきりとした声で言い放つ養母に、ギヨは息を呑んだ。表情は強張り、瞳には怒りの色が満ちている。
「ギョームを奪ったガルシアが憎かった。大陸の支配だとか、ヴァイス・クロイツ教の教義だとか、そんなことはどうでもよかった。ギョームの仇を討つことしか……、頭になかった」
そこにいるのは、優しくて穏やかな養母ではなかった。バラやレスターから、養母が怒りを露わにした逸話はこれまでにも聞かされてきたが、想像することもできなかった。息子の心情を察したのか、キリエは大きく息を吐き出し、気を落ち着けた。
「……フアナ様のおかげもあって、戦争は泥沼化することなく和平が結ばれた。でも……、私はギョームだけでなく、エレソナも喪った」
キリエはギヨに哀しげな眼差しを向けた。
「エレソナはね、私にこう言ったの。この子を絶対に手放すな、と」
養母の瞳が見られず、顔を伏せる。〈タイバーンの雌狼〉と呼ばれ、やぶ睨みの瞳で忌み嫌われた生母。そんな母も、死に際して自分の行く末を案じていた。
「エレソナにあなたを託されたはずなのに、彼女とギョームを一度に喪った私は、生きる気力をなくしてしまった」
ギヨはそっと養母の横顔を見つめた。どこか恥じ入るような、苦しげな表情に胸が痛む。
「あの頃のことは記憶が定かではないの。でも、生きることをやめた私は毎日を無為に過ごしたわ。部屋から出ず、夜も昼もなかった」
終戦直後に養母が心身を病み、長い間臥せたということも伝え聞いていた。だが、そのことを養母自身から聞かされたことはない。
「皆は、時間をかけて私を治そうとしてくれたわ。静かに、ゆっくり……。でも、クロイツはそうではなかった」
ギヨは眉を吊り上げ、険しい顔を向けた。
「……先の大主教ですか」
キリエは黙って頷いた。
聖都クロイツの大主教ムンディとは、女帝として戴冠した後から関係が悪化した。ムンディが自身の権力を強化する体制を望んだため、キリエが激しく反発したのだ。時同じくして、大主教が政治色を強めることに異議を唱える一派が退陣を要求。あわや武力衝突の寸前にまで発展したが、結局はムンディの退位で争いは終結した。後継者として、キリエは懇意にしているワイザー大司教を推挙したが、本人が固辞。代わりに、ワイザーの眼鏡に適う人物が大主教に抜擢された。これにより、キリエは政治的にも宗教的にも頂点を極める、名実共に「神聖ヴァイス・クロイツ帝国」の女帝となった。
「ムンディ大主教は早く女帝として戴冠するよう何度も要求してきたわ。皆は私を守ろうとしてくれたけれど、迷惑をかけたくなかった私は、戴冠式を受けることにしたの」
キリエの脳裏に、戴冠を祝う市民で埋め尽くされた聖アルビオン大聖堂の広場が浮かび上がる。生きる気力をなくし、まるで抜け殻のように痩せ衰えた自分の姿に衝撃を受け、回復を願い、平和な統治を祈る人々。歓声の渦に、押し潰されそうだった。
「皆が私を待っていた。早く健康になって、女王として、女帝として義務を果たしてほしいと願っていた。……だけど、それを望まない者もいた」
ごくりと唾を飲み込んで養母の言葉を待つ。いつしかそよ風は凪ぎ、張り詰めた静けさに包まれる。
「マーブル伯ジェラルド・シェルトン。エレソナの母君を愛した人。彼にとって私は、愛した人の娘を死に追いやった張本人」
「でも」
「私がいなければ、エレソナは死ななかったのだもの」
息子の言葉にも、強張った声色で言い返す。彼は口を閉ざした。
「エレソナは死んだのに、抜け殻のような姿で人々の前に現れた私を、彼は許してくれなかった。近衛兵に紛れ込み、人々が見ている前で剣を抜き、私の名を――」
「キリエ・アッサー!」
あの叫びは今でも耳から離れない。今日のように真夏の太陽が照り付ける中、シェルトンの白銀の剣が青空を裂いた。
「――私に向けられた剣。でも、その切っ先を目にして気付いたの。彼が殺してくれたら、ギョームに会える、って」
ギヨは震えを押し隠し、息をひそめて養母を見守った。まるで眠りながら夢を語っているかのように、キリエは抑揚のない口調で言葉を続けた。
「だから、私は目を閉じて彼の一撃を待った。……早くギョームに会いたかった」
そうして目を閉じ、辺りは静寂に包まれた。ギヨは、早鐘のように打ち鳴らされる胸に、苦しげに顔を歪める。やがて、キリエは右手をゆっくり持ち上げた。
「でも、その時。手を引っ張られたの」
「……手を」
こくりと頷くと、右の手のひらを見つめる。
「後ろから激しい勢いで引っ張られて……、私は大きくのけ反った。それでも、剣の切っ先は王冠と額を、抉った」
熱い衝撃と同時に視界が真っ赤に染まる。何が起こったかわからないまま倒れようとした。
「その時、体を支えられたの。最初はジュビリー。でも、もう一人いたのよ」
「もう一人?」
キリエはゆっくり振り返った。せつなげに眉をひそめ、目には涙を溜め、唇は引き結ばれている。
「……結局、マーブル伯はジュビリーに斬られて死んだわ。私は額を傷付けられただけで済んだ。でも、信じられないほど血が溢れて」
一度言葉を切り、息を整える。
「ジュビリーは、私が死んでしまうと思ったそうよ。彼は何度も何度も私の名を呼んだ。その、彼の肩越しに……、ギョームがいたの」
父の名に思わず目を見開いて身を乗り出す。先を促す息子に、キリエは寂しそうに微笑を浮かべた。
「……ギョームは怒っていたわ。怖い目で私を睨みつけてきて」
「父上が?」
「だって……、私は死のうとしていたんだもの。ギョームが守ってくれたこの命を、投げ捨てようとしたんだもの」
ギヨは眉をひそめ、返す言葉がなかった。
「だから、謝ったわ。ごめんなさいって。そうしたら、許してくれたの。笑ってくれた」
そう。降り注ぐ太陽の光の中で、ギョームは柔らかな笑顔をみせてくれた。でも、だからこそ哀しかった。もう、この笑顔が見られないなんて。キリエの表情が崩れる。
「思わず、彼に言ったわ。行かないでって。……連れていってほしかった」
溢れそうになる涙を堪え、大きく息を吐き出す。何度か深呼吸を繰り返し、再び上げた顔に微笑が戻る。
「そんな私に、ギョームはキスしてくれたのよ」
両の頬を包まれ、唇が触れた。柔らかな感触が懐かしかった。合わさる唇は、二度と離れることがないと思わせてくれたのだ。永遠のように、長い接吻だった。
「……それが、ギョームとの最後の別れ。でも、別れなんかじゃないのよ。いつでも、彼は私の側にいてくれる。そう信じられた」
そして、キリエは風に揺れるウィンプルを手に取った。ゆっくりとウィンプルを外し、前髪を掻きあげるとギヨを振り返る。彼は眉をひそめ、神妙な顔つきで養母の顔を見上げた。
右の額に、赤く抉れた傷が今も生々しく残っている。穏やかで美しい顔立ちに不似合な傷痕。だが、それは養母と父を繋ぐ証なのかもしれない。少し眩しそうな表情で見つめてくる息子に、キリエは微笑みかけた。
「この話はね、まだ誰にも言っていないの。私とあなたと、ギョームだけの秘密」
「誰にも?」
思わず聞き直すギヨに嬉しそうに頷く。
「これからも、三人だけの秘密よ」
だが、キリエはかすかに眉をひそめると傷痕に手をやった。
「……命を奪うほどの傷ではなかったけれど、この傷は私の目を覚ますのには充分だった。それからよ、私がようやく歩き出そうとしたのは」
キリエは、ギヨの表情を見守りながら言葉を続けた。
「それでも、復帰するまでには時間がかかったわ。……大勢の人が助けてくれた。中でも、ずっと支えてくれたのが、ジュビリーなの」
ギヨは、ジュビリーの名を耳にしてももう目の色を変えるようなことはしなかった。それでも、何か言いたげな表情にキリエの顔つきも曇る。
「ギヨ。……私の心の中にギョームが生き続けているように、ジュビリーの心にも大事な人がいるのよ」
その言葉に思わず目を眇める。
「彼の亡くなった奥方……。彼女を超える存在になれる自信はないわ」
「……養母上は、それでいいのですか」
「彼も、ギョームを超えることはできないもの」
ギヨは、不満とも困惑とも取れる表情を浮かべた。キリエはふっと微笑む。
「あなたにはまだわからないかもしれない。……でも今は、それでいいわ」
微風に髪が揺れる。キリエはほつれ毛を押さえながら城下を振り仰ぐと、ぽつりと呟いた。
「……そろそろ、戻りましょう。皆が待っているわ」
ビジュー宮殿の後宮では、いつまでも帰ってこない女帝と王にバラが気を揉んでいた。思い詰めた表情で顔を伏せる宰相に、側近が「アンジェ公」と声をかける。側近の視線を追うと、ジョンを伴ったジュビリーの姿が。
「クレド公!」
思わず声を高めて呼ばわる。ジュビリーは、黙ったまま深々と頭を下げた。
「どうして、貴殿は……!」
強い口調で言いかけたかと思うと唐突に口をつぐみ、見開いた目で凝視してくる。ジュビリーはわずかに決まりが悪そうに項垂れた。バラは諦めたように溜息をつくと、辺りを気にしながら口を寄せ、囁いた。
「この度のこと、どちらが決めたのだ」
「……女帝陛下でございます」
「思い留まらせようとはしなかったのか」
まるで叱られた子どものように目を逸らすジュビリーに、バラは苛立たしげに顔を振る。
「貴殿と陛下が互いに思いを寄せ合っていることなど、ずっと以前から気づいておったわ。だが、何故今になって……」
それでも黙して語らないアングルの宰相に、根負けしたように再び溜息を吐き出す。
「相変わらず強情な男だ」
そして、後ろに控えているジョンに目を向ける。
「……貴公も知っているのか」
ジョンはただ口許に微笑を浮かべただけだった。女帝と義兄を尊敬してやまない彼のことだ。特に反対もしなかったのだろう。バラはアングル人の呑気さに思わず頭を抱えた。その時、ジョンが声を上げる。
「お帰りになられたようです」
二人が振り返ると、廊下の先に女帝と王と思しき姿が。バラは顔を引き締めた。
中庭のバルコニーから後宮に戻ってきた女帝とガリア王をモーティマーが出迎える。
「お帰りなさいませ」
そして、幼い王に微笑みながら声をかける。
「いかがでございましたか」
「……そなたも知っているのか、あの山を」
「麓にだけ、行かせていただいたことがございます」
だが、ギヨは複雑な表情で黙り込んだ。モーティマーが思わず女帝を仰ぎ見るが、キリエは頷くだけだった。
「陛下!」
バラが心配そうな顔つきで小走りにやってくる。彼は不安だったのだろう。まだ幼い王が、敬慕する養母の再婚話を受け入れられるのかを。そのガリアの宰相の後方。わずかに遅れてやってくるアングルの宰相。相変わらず眉間に皺を寄せた表情。いつもと変わらぬ黒衣。そうだ。喪服だ。ギヨの表情が険しくなる。母が言うところの、「彼の心に生き続ける亡妻」のための喪服。それでも、再婚するというのか! ギヨの頭にかっと血が上る。思わず床を蹴って走り出す。
「ギヨ?」
キリエの制止も届かない。ギヨは一直線に宰相に向かって走った。
「陛下……!」
バラの狼狽えた声。目を見開くジュビリー。鞘を走る鋭い音。ギヨは抜き放った剣の切っ先をジュビリーに差し向けた。白銀の不穏な輝き。後宮の廊下に、人々の悲鳴が上がる。キリエは真っ青になって口許を手で覆った。
「抜け! バートランド!」
幼い王の叫びが廊下に響く。ジュビリーは微動だにせず切っ先を凝視した。
「予はまだそなたに勝ったためしがない! 抜けッ!」
廊下がどよめきに包まれる。
「ギヨ……! やめて、ギヨ!」
走り出す女帝をモーティマーが押し留める。ジュビリーは自分に向けられた剣に目を眇め、険しい表情で怒鳴り返した。
「時と場所をお考え下さい、ギョーム王陛下!」
「黙れ!」
ギヨはわずかに剣を下げると身を乗り出した。上目遣いに睨みつけ、絞り出すように囁く。
「……養母上が欲しくば、私を倒してみろ!」
その言葉に、バラが息を呑んでジュビリーを振り返る。黒衣の宰相の顔が、一気に紅潮する。彼は左足を引くと腰を落とし、長剣を抜き放った。廊下が再び悲鳴に包まれる。
「やめて……! やめて、ギヨ! ジュビリー!」
半狂乱になって叫ぶキリエをモーティマーが必死に押し止める中、剣がぶつかり合う鋭い金属音が響く。
合わさる刃が弾かれ、返す剣が容赦なく繰り出される。子どもながら、ギヨの太刀筋は鋭い。小柄であっても武芸に秀でていた父親の才能を受け継いでいるのだろう。いや、才能だけではない。ジュビリーは目を細めた。強い。当然だ。自分が育てたのだから。深い碧の瞳が真っ直ぐに向けられる。瓜二つだ。生前のギョームとは刃を交えることはなかった。もしも交えていたならば、このようになっていただろうか。
(若獅子王よ)
ギヨの剣を受けながら胸で呟く。
(あなたの息子は強い。これからも強くなる)
対するギヨは目を見開き、必死に剣を振るった。脳天に目掛けて振り下ろされた剣を弾き、素早く体を入れ替えて剣を突き出すがそれも躱される。ギヨは歯噛みした。いつもこうだ。この男に勝てない!
「やめて……、お願い、やめて……!」
涙が混じる女帝の叫びに、ジョンが二人を止めようと割り込むが、ジュビリーの剣が鋭く弧を描く。
「グローリア侯……!」
咄嗟にバラがジョンの腕を掴み、剣の切っ先が彼の胴衣を翳める。
「……何てことだ」
ジョンが思わず舌を巻く。何て大人げない。義兄は本気だ。
その場に居合わせた廷臣や侍従たちも、なす術もなくおろおろと立ち尽くすばかりだ。衛士たちが駆けつけるが、相手が国王ではどうしようもできない。
気づけば、攻めていたはずのギヨがいつしか押され始めている。歯を食いしばり、振り下ろされた剣を
だが、やはりギヨは幼かった。焦り始めた彼は、最後の気力を振り絞って一気に勝負に出た。剣の柄を握り直し、前へ踏み込むと素早く剣を繰り出す。その時。
「ギヨ様!」
「ギヨ様……!」
騒ぎを聞いて駆けつけたトゥリー家の兄妹とローズ・アンは、思いもしない光景に愕然となった。
「どうして、どうして……!」
甲高い声で喚くフランセスをローズ・アンが咄嗟に抱きしめる。
「ローズ! 下がれ!」
モーティマーが娘に怒鳴るのと同時に、衛士が子どもたちを後ろへと追いやる。
友人たちの叫びもギヨの耳には入らなかった。二度三度、下から上へと剣を振るう。繰り返される攻撃に、さしものジュビリーも顔を歪め、じりじりと後退を始めた。
(終わりだ……! 終わりにしてやる!)
ギヨは剣を弾かれたと同時に両足を踏ん張ると素早く両手で剣を握り直した。裂帛の叫びと共に大きく剣を振りかぶる。
「やめて――!」
キリエの切れ切れの叫び。振り下ろされた剣を流そうと剣の背で受けたジュビリーの顔が瞬間歪む。右肩から指先にかけて火が走るように激痛が突き抜ける。
「……!」
我に返ったようにギヨが動きを止める。ジュビリーの手から剣が滑り落ち、豪奢な絨毯の上にがらんと転がり落ちる。がっくりと膝を突き、大きく息を吐き出す。皆は手を握り締め、息を凝らして二人を見守った。ギヨは呆然と屈みこんだ相手を凝視する。
「……ギヨ様」
項垂れたまま、ジュビリーは右腕を撫でながら囁く。
「お強くなられました。嬉しゅうございます」
だが、ギヨは唇を震わせて口走った。
「卑怯者……!」
思わずジュビリーが眉をひそめて顔を上げる。幼いガリア王は、ともすれば泣き出しそうな顔で叫んだ。
「その古傷は……、父上と養母上を守った傷ではないか!」
言葉を失って見上げるジュビリー。ギヨは、養母と父の結婚式が襲撃され、ジュビリーが身を挺して二人を守ったことを伝え聞いていた。その時の古傷が今でも疼くことも。
人々はおろおろと困惑しながらも二人を見守った。ギヨは大きく息を吐き出すと、かすれた声で「立て」と囁いた。ジュビリーは無言で立ち上がると剣を鞘に納めた。それを目にして、ギヨも思い出したように剣を納める。
「……これから聞くことに答えろ」
「はい」
ギヨの背後では、まだ真っ青な顔付きのキリエが両手を握りしめて立ち尽くしている。
「いつから養母上を想っていた」
幼い王の刺々しい問いに人々が驚きの声を上げてざわつくが、バラが手を払ってその場を静める。ジュビリーはわずかに目を伏せた。
「……わかりませぬ」
「答えろ!」
荒々しい声で怒鳴り付けた瞬間。静まり返った廊下に幼女の泣き声が響き、ギヨはぎくりとして振り返った。皆の視線が注がれたのはフランセス。彼女は激しく肩を震わせて泣きじゃくっている。いつも遊び相手になってくれる優しい「ギヨ様」が剣を振るい、怒鳴り声を上げることに困惑しているのだろう。傍らのローズ・アンが両膝を突くとフランセスを抱きしめた。頭を優しく撫でながら、心配そうな眼差しをギヨに投げかける。ギルフォードやヘンリーも不安でいっぱいの表情で見つめてくる。いや、ヘンリーが見つめているのはギヨではなく、養父の方だ。
普段は口数が少なく、躾も厳しい養父。剣の稽古も決して手加減はしないし、家庭教師を雇うことなく手ずから勉学も教える。あまりの厳格さに何度か「家出」を試みたこともあったが、生来の負けん気を振り絞り、何とか踏み止まってきた。養父もそんなヘンリーの気持ちを察するのか、時折不器用な気遣いを見せる。二人はそうやって日々を共に過ごし、ようやく親子らしくなってきた。その養父が今、「一人の男」として想いを果たそうとしている。ヘンリーはごくりと唾を飲み込んだ。
皆の視線を痛いほど感じながらも、ジュビリーはギヨを見つめて立ち尽くしていた。そっくりだ。滅多に機嫌を損ねることがなかったギョームも、怒りを露わにした時は今のギヨのように口許を歪め、耳まで真っ赤にしていた。ジュビリーは、小さく息をつくと静かに語り始めた。
「私は教会から陛下を、いえ、キリエ様をお連れした時から、この命に代えても守らねばならぬと自らに言い聞かせてまいりました。それは、私を息子のように可愛がって下さったグローリア伯との約束でもあり、キリエ様が私の大切な友人のお子でいらっしゃるからでもあります」
キリエは言葉を失ってジュビリーを見つめた。祖父との最期の別れが脳裏に浮かぶ。母も祖父も、自分の行く末を案じながら天に召されたに違いない。そして、父エドガーも。ジュビリーは多くの人の思いを背負って自分を守り続けてきた。
「キリエ様を大切に思う気持ちは、ずっと以前からでございます」
「それほど大事なら」
どこか切羽詰まったように畳み掛けるギヨ。
「何故、父上と結婚するよう進言したのだ。アングルでは養母上と父上の結婚に反対する者が多かった。それを説得したのはそなたであろう!」
バラの隣で、ジョンが痛ましげに眉を寄せる。あの当時の義兄の苦悩を間近で見守ったのだ。あの時の彼は、本当は誰にもキリエを渡したくなかったはずだ。
「それが、キリエ様の幸せに繋がると思ったからでございます」
冷静に答えるジュビリー。
「先王、ギョーム王陛下ならば必ずやキリエ様を幸せにしてくださる、と。そして、それが世界の平和に繋がると信じたからでございます」
キリエの耳には、あの時の彼の言葉が今でも残っている。
「これからは、私の代わりにギョームがおまえを守る」
彼は、様々な思いを押し隠してその言葉を告げた。
「事実、キリエ様は先王陛下と幸せなご結婚をなさいました」
ギヨは目を眇めてジュビリーを凝視した。養母も言っていた。父と過ごした日々は幸せだったと。だからこそ、簡単に認めるわけにはいかない。ギヨは険しい表情でジュビリーを見上げた。
「予が認めなければどうする」
固い声色で言い放たれた言葉に、皆が動揺の声を上げる。
「予が反対したら、どうするつもりだ」
両手を握りしめたキリエの足許がふらつき、モーティマーが背を支える。真っすぐに眼差しを向けてくるギヨに対し、ジュビリーは目を細めた。
「お待ち申し上げます」
はっきりとした声で言い切る。
「どんなに時間がかかろうと、ギヨ様にお許しいただけるまで、お待ちいたします」
何か言いたげな顔付きながら黙り込んだままのギヨに、ジュビリーは言葉を継いだ。
「私は、キリエ様を幸せにするとお約束いたしました。そして、私も幸せになりとうございます」
思いもよらぬ真っすぐな言葉に、キリエの目が見開かれる。キリエだけでなく、ジョンやバラ、モーティマーなど、ジュビリーを古くから知る者たちにも衝撃を与えた。あの、自らを多く語らないジュビリー・バートランドが。
「予を納得させられるのか」
それでもギヨは声を張り上げた。
「予が許すと、本気で――」
「ギヨ様は」
彼ははっとして言葉を飲み込んだ。ジュビリーが笑っている。懐かしい眼差し。かつて、幼い頃の自分に向けられていた微笑。
「きっとお許し下さるでしょう。ギヨ様は、誰よりも母君の幸せを願っておいででございますから」
その言葉に誰もが言葉を失う。ギヨは思わずぽかんと口を開いて目の前の男を凝視した。が、やがて顔を真っ赤にすると地団駄でも踏む勢いで叫んだ。
「おまえは……! どこまで卑怯な男だ!」
「はい」
相手の非難にも関わらず、ジュビリーは微笑をたたえたまま頷いてみせる。周囲がざわつく。その潮騒のように広がる囁き声には、明らかに期待が込められている。ギヨはぎゅっと目を閉じて仰向いた。
「ギヨ……」
背中に、不安に満ちた養母の囁きがかけられる。その一瞬に、脳裏に様々な思いが駆け巡った。
ギヨには、幼い頃に焼き付いたある情景があった。身近な友人たちには皆「父親」がいた。皆にはいて、自分にはいない「父親」。養母に深い愛情をかけられてはいても、この虚無感だけはどうしようもなかった。ある日、まだ幼子だったヘンリーが実父に「高い高い」をしてもらってはしゃいでいる様子を目にして、それまで我慢していた嫉妬心が弾けた。
「ははうえ! ぼくにも!」
小さな両手を差し上げて養母に乞い願う。その頃のギヨは四、五歳。側近たちが止める中、養母は強張った顔付きでギヨを抱き上げた。だが、抱え上げることはできても、とても高い高いなどできない。
「ははうえ! もっとたかく!」
甲高い声で喚く自分に養母が涙ぐんだ時。不意に、ふわっと体が浮き上がる。
「ギヨ様」
低い声に振り向くと、そこにいたのは黒衣の男。彼は穏やかな表情で自分に笑いかけると、「それっ」と空へ向かって放った。
「わぁっ!」
二度三度と放られ、青空の中で手足を伸ばす。嬉しくて楽しくて、けたたましく笑い声を上げた。そんな自分を養母は少し呆然と見上げていたが、やがてその顔が泣いたような笑顔に変わる。
「ありがとう! バートランド、ありがとう!」
ジュビリーの首にしがみつき、大声を上げる。彼は顔をほころばせると頬擦りまでしてきた。固い口髭が痛かったのを覚えている。父親がいなくても、父親のように包み込んでくれる存在が自分にはいる。それは幼心にとても頼もしく感じた。それでも。それでも、自分には――。
しばらく沈黙を守っていたギヨは、やがて息を吐き出すと目を開いた。あれから十年余り。黒衣の男はずいぶんと老いた。ジュビリーの表情からは微笑が消え、神妙な顔付きで立ち尽くしている。
「……父とは呼ばぬぞ」
「は……」
不意に投げかけられた言葉に眉をひそめる。ギヨは声を高めた。
「予には母上が二人いる。だが、父上は一人だけだ」
皆が小さく感嘆の声を上げる。キリエは張り裂けそうな胸を必死で抑えた。
「それから」
わずかに困惑の表情のジュビリーに向かって、胴衣を指差す。
「もう黒衣を着てはならぬ。良いな」
目を見開き、思わず右手で胴衣を握りしめる。ギヨはゆっくりと養母を振り仰いだ。
「養母上、ひとつだけお願いがございます」
「え……」
怯えにも近い表情にギヨが困ったように微笑む。
「神聖ヴァイス・クロイツ帝国の帝位は継承いたします。ですが、アングル王国の王位はまだいただきません」
黙ったまま眉をひそめる養母に、ギヨは穏やかに続けた。
「ご存知ですか。イングレス市民は未だに『女王をガリアに取られた』と、恨み言を申しているのですよ」
幼い王の言葉にガリアの廷臣たちが苦笑いを漏らす。
「女王としてアングルに留まれば、民も安心するでしょう」
「ギヨ……」
ギヨは首を巡らすと黒衣の宰相を一瞥する。じろりと睨みつけると、ジュビリーはごくりと唾を飲み込む。その様子にふんと鼻を鳴らすと、養母に向き直る。
「……幸せになって下さい、養母上」
そう言って笑ったギヨ。その笑顔がギョームと重なる。穏やかで柔らかな笑顔。キリエは駆け寄ると愛し子を抱きしめた。瞬間、廊下は歓声に包まれた。
「ギヨ……! ギヨ、ありがとう……!」
養母の優しい温もりに目を閉じ、そっと囁く。
「……養母上。父上のこと、忘れませんよね」
「もちろんよ……!」
ギヨは溜息をついた。これで気がすんだ。養母は父を忘れない。そして、いつまでも自分のものだ。例え、再婚しても。
「……レスターが、喜んでくれるわ」
養母のくぐもった呟きに顔をしかめる。
「じいが?」
「ずっと心配していたのよ」
キリエは涙で汚れた顔を上げると、息子の頬を両手で包み込んだ。
「自分が元気なうちに私たちに結ばれてほしいって……。それに、あなたとジュビリーが昔のように仲良くしてほしいとも」
ギヨの脳裏に「じい」の穏やかな表情が浮かぶ。幼い頃から自分を可愛がってくれたじい。養母には話せないことも、彼には相談できた。ギヨにとって、レスターは祖父も同然であった。だが、ジュビリーに反抗し始めた自分を憂いていたことは知らなかった。
「……じいに、安心してもらわなければなりませんね」
気恥ずかしそうに呟くギヨの髪を掻き撫でる。その頃、どこか茫然自失のジュビリーにジョンが駆け寄る。
「義兄上……!」
義弟の声に振り返る。彼なりの「真剣勝負」だったのだろう。額に大粒の汗が吹き出し、頬を伝っている。
「お疲れ様です」
ジュビリーは、ごくりと唾を飲み込んでからかすれた声で囁きかけた。
「ジョン、私は……」
「わかっています。水臭いことは言わないで下さいよ」
そう言ってジョンは嬉しそうに微笑んだ。こちらが言うまでもなく、義兄は姉を忘れないだろう。幸せな時を共に過ごした、最初の伴侶を。
「ギヨ様!」
幼女の叫び声。ギヨが振り返るとフランセスが飛びついてくる。彼は優しく抱きしめた。
「すまない、フランセス。びっくりさせてしまったな」
「でも、でも」
フランセスが興奮気味にまくし立てる。
「伯父上に勝ちましたね、ギヨ様!」
目を輝かせて叫ぶフランセスに、ギヨは微笑みながら顔を振る。
「勝ちではない。引き分けだ」
「引き分け?」
きょとんとした顔付きで目を丸くするフランセス。その背後に、ジュビリーがゆっくりと歩み寄ってくる。
「……バートランド」
低い声で呼びかけると、曖昧な表情を浮かべる。
「父上の仕業だったのかもしれないな」
「はい?」
「古傷だ」
ジュビリーははっとして右腕を掴んだ。そして、ギヨの肩越しにキリエを見つめる。彼女も訴えかけるような眼差しを投げかけてくる。そんなジュビリーにふんと笑いかけてから、ギヨは養母を振り仰いだ。
「養母上」
「……ギヨ」
「忘れないで下さいね。私はいつまでも、あなたの騎士ですよ」
キリエはもう一度息子を抱きしめた。祝福の喝采の中で。